アンネの日記事件からVisas for 6,000 Livesを思う

  • 2014/03/21 18:57
  • Category: 日記
今朝のニュースで
 安倍晋三首相は、オランダでの核安全保障サミット出席に合わせて「アンネの日記」の作者であるユダヤ人少女アンネ・フランクを記念する「アンネ・フランクの家」博物館を23日、訪問する。日本でアンネの日記や関連書籍が破られた事件に心を痛めていることを博物館関係者に直接伝える方針だ。
上記はアンネの日記破損事件を踏まえた問題で訪れるのだろう。

この事件は日本国内だけでなく、BBC、ニューヨーク・タイムズ、ワシントンポスト、ガーディアン、ハーレッツなど、海外の主要メディアもこぞって報じている。
米国のユダヤ人権団体「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」が緊急の声明。
・ヴィーゼンタール・センターは、日本の図書館で『アンネの日記』が大量に冒涜されたことに衝撃を受け、深い懸念を示します
様々な国際的反響をもたらした事件と言える


1952年12月に日本語に翻訳された「アンネの日記」は、1953年にベストセラーリストで1位になり日本国民に大変親しまれてる書籍。
また、日本は東アジアで唯一、アンネ・フランクの像や博物館を有しており、毎年約3万人の日本人観光客がアムステルダムのアンネ・フランクの家を訪れている

まして日本には反ユダヤの土壌の一切ない国で、こんなことをしても意味はない
この事件が日本人の感情を代表していないことは一目瞭然だし、筋道だった何らかの思想に基づいた犯罪でなさそうなことは、誰もが感じるだろう




映画で「シンドラーのリスト」は有名である
日本にも杉浦千畝氏(日本のシンドラー)と言われる人が居る
是非「六千人の命のビザ」(新版) 杉原幸子著 大正出版を読んで頂きたい
【六千人の命のビザ】
1939年,フィンランド外交官だった杉原千畝(ちうね)は,リトアニアへの転勤命令を受け,首都カウナスの日本領事館に赴任した。
リトアニアは,バルト海沿いの小国で,在留日本人はおらず,直接の通商関係も無く,日本とは無縁の国だった。したがって,千畝に期待されていた役目は,ポーランド情勢が切迫してゆく中での,最前線でのソ連・ドイツの情報収集であると思われる。すでに,ドイツは,ポーランドとの不可侵条約を破棄し,ソ連と不可侵条約を結んでいたからだ。
そして,千畝が着任して,わずか4日後,ドイツ軍は電撃的にポーランドに侵攻。続いて,ソ連が東から攻め込み,ポーランドは,ドイツとソ連に分割占領された。
無題


「1939年9月,西ポーランドに侵攻したナチス・ドイツ軍が,その占領した地区の住民に対して示した凶暴ぶりは,日に日にその熾烈さを増してゆき,そのうちでも,とりわけ猶太(ユダヤ)に対する残虐さは目をそむけしむるものがあった。それ故に,仮に今日のところはまだその難を免れ得たとしても,明日のわが身はどうなるかは,誰一人予測できない状況にあったので,三々五々相集うようになり,同年末頃からは,早くも北へ向かって民族移動の様相すら帯びてきた。この民族大移動の大部分は,途中,言語に絶する困難を乗り越えて,遠くバルチック海に臨むリトアニアの首都,カウナスに流れ着いた。当時私は,リトアニアのカウナス領事館に領事として在住していた」(杉原千畝の手記より)

そして,翌年の1940年7月18日の早朝。
千畝は,いったん事務室に下りていった後,再び戻ってきて,妻幸子の部屋をノックした。

「ちょっと窓から覗いてごらん」

幸子はカーテンを少し開けて,外を覗いて驚いた。建物の周りをびっしりと黒い人の群れが埋め尽くしているのだ。

領事館前でビザ発給を訴えるユダヤ人たち
ryoujimae.png
当時のリトアニアの日本領事館
ryoujikann.png
「いずれもポーランド西都市からのユダヤ系であって,ナチス・ドイツ軍による逮捕,虐殺の難を逃れ,唯一の逃れ道としてのヴィルノ(現リトアニアの首都ビリュニュス)を目指し,晴雨を問わず幾日もかかって,ある者は鉄道線路沿いに痛む足をひきずりつつ,ある者は運良く行きずりの荷馬車に乗せてもらうなどして,辛うじてヴィルノにたどり着いたわけである,とにかく,ソ連,日本を経由してそれ以遠の第三国に移住するための日本通過ビザを発給してもらいたい,ということだった」(同手記より)

時折,窓を覗くと,顔の汚れた幼い子供が父親の手も握っているのが目に入り,胸の奥に鋭い痛みを覚え,幸子は思わず目を閉じてしまった。

当時,キュラソービザというものがあった。受入国の無いユダヤ人へビザを発行するために,入国ビザを必要としない南米キュラソー(オランダ領スリナム,キュラソー島など)を受け入れ先として利用する方法である。千畝は,この方法を,ユダヤ人に同情的なオランダの領事ヤン・ツバルテンディクから聞いて知っていた。そして,領事の権限で,少数のビザなら発行できると判断し,一日に3,4件のビザを発行していたのだ。そのため,カウナスに行けば日本行きのビザが取れるという情報が広まり,ユダヤ人逃亡者たちが,いっせいに日本人領事館に押し寄せてきたのである。

数日中には数千人にまでなるだろうと聞かされ,千畝は本省宛にビザ発給の許可を求める請訓電報を打った。
二度打ったが,二度とも,本国は拒否してきた。
当時,日本はドイツと軍事同盟を結んでいた。ユダヤ人を逃がすような行動は,ヒトラーへの敵対行動にあたる。また,仮に許可が下りたとしても,ビザ発給の行動がゲシュタポに知られれば,襲撃される恐れすらあった。千畝は苦悩した。

「最初の回訓を受理した日は,一晩中私は考えた。考えつくした。回訓を文字どおり民衆に伝えれば,私は本省に対し従順であるとして,ほめられこそすれ,と考えた。仮に当事者が私でなく,他の誰かであったとすれば,おそらく百人が百人,東京の回訓どおり,ビザ拒否の道を選んだであろう。(中略) 苦慮,煩悶の挙句,私はついに人道博愛精神第一,という結論を得た」(同手記より)

日本では,ユダヤ人に対するナチスの残虐行為について,その実態が知られていない。ナチスの非道を,現地ユダヤ人から確認した千畝は,ユダヤ人をその生き地獄から救うべく,決意を固めた。ソ連領事館を訪れ,日本のビザを持った者に対し,ソ連内の通過ビザが下ろされる,ということを確認すると,日本政府の訓令を黙殺し,独断でビザ発給を行うことを決めたのだ。

7月29日の休館明けの月曜日から,千畝は,猛然とビザを書き始めた。

「かくして,忘れもせぬ,1940年7月29日からは,一分間の休みもなく,ユダヤ難民のための日本通過ビザ発給作業を開始した次第です」(同手記より)

その日,千畝が表に出て,鉄柵越しに「今からビザを発行する」と告げたときの,民衆の歓喜のさまを,妻の幸子は窓から見ていた。最初に,人々の間に電気が走ったような一瞬の沈黙があり,その後の,どよめき,抱き合ってキスし合う姿,天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人,子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。

整理券を配り,一人ずつ面接を行い,名前を間違えないように,しかも手書きでビザを書くという,手間のかかる作業が始まった。1日300枚が目標である。記入するのは千畝でなければならない。知らず知らずに手に力がこもり,万年筆が折れてしまい,ペンにインクをつけて書くという日が続いた。一日が終わると,ぐったり疲れてベッドに倒れこむ。痛くて動かなくなった腕を,妻がマッサージしている,ほんの数分のうちに寝入ってしまうような状態であった。

外には大勢のユダヤ人が順番を待って朝から晩まで立っている。 やっと順番が巡ってきて、ひざまづいて杉原の足もとにキスをする 女性もいた。夜はもう寒いのに、近くの公園で野宿して順番を待つ人もいる。
最初は,採番した番号を記入していたが,2000枚あたりでそれも取りやめた。手数料の徴収も停止した。
朝から,晩まで,休むことなくビザを発給し続ける毎日が20日ほど続いた。
そんな中,8月3日には,リトアニアはソ連に強制されて独立国を放棄し,ソ連の一共和国として加盟した。そのため,ソ連は領事館の閉鎖を求めてきた。千畝は8月28日までビザを発給し続けたが,ソ連からの,激しい退去命令がくりかえし行われ,やがて外務省からも,「ただちに領事館を閉鎖して,ベルリンへ行け」との,有無を言わせない強い指令が来るにいたり,千畝もついに引き揚げを決意した。

領事館から車で出たときに見た,数人のユダヤ人が呆然と佇んで見送る姿を,忘れることができないと,妻幸子は回想録に残している。

疲労困憊した千畝は,そのまま汽車の長旅に出れるような状態ではなく,ホテルで休むことにしたが,ここにもユダヤ人がビザを求めてやってきた。千畝が行き先を領事館の扉に貼り出していたからだ。領事印や用紙は既にベルリンへ発送されていたため,ありあわせの紙で,正式なビザに代わる許可証を発行した。退去期間のぎりぎりまでホテルで逗留していた千畝だが,ホテルにも,外務省からの電報が届き,一刻も早くベルリンへ移動しろとの訓令が来る。国境が閉められると,国外脱出ができなくなるからだ。

9月5日の早朝,カウナス駅でベルリン国際列車を待っている間にも,ビザを求めて何人かのユダヤ人が来ていた。千畝は,汽車が走り出すまで,窓から身を乗り出して許可証を書きつづけた。やがて,汽車が走り出した。もう書くことができなくなった。

「許して下さい。私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」

夫は苦しそうに言うと,ホームに立つユダヤ人に深々と頭を下げました。呆然と立ち尽くす人々の顔が,目に焼き付いています。

誰かが叫びました。
「スギハァラ。私たちは,あなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」

列車と並んで泣きながら走ってきた人が,私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫びつづけていました。



【後日談】
ビザを受け取ったユダヤ人達は、数百人毎の集団となって、身動きができないほど詰め込まれた列車で、数週間をかけて、シベリアを横断した。ウラジオストックの日本総領事は、千畝をよく知っていて、杉原の発行した正式なビザを持つ人を通さないと海外に対する信用を失うことになると外務省を説得した。

日本郵船のハルピン丸が、ウラジオストックと敦賀の間を週一回往復してユダヤ人達を運んだ。船は小さく、日本海の荒波で激しく揺れ、ユダヤ人達は雑魚寝の状態で船酔いと寒さに耐えながら日本に向かった。それでもソ連の領海を出た時は、ユダヤ人の間で歌声が起こった。シベリア鉄道では歌を歌うことさえ許されなかったのだ。

新天地カナダへ向かう「日枝丸」船上で開放感にみちた表情のアン・ニューエルトさん
funade1.png

横浜から「氷川丸」に乗ってアメリカに向かうユダヤ難民
funade2.png


昭和15年10月6日から、翌16年6月までの10ヶ月間で、1万5千人のユダヤ人がハルピン丸で日本に渡ったと記録されている。敦賀から神戸に向かい、神戸のユダヤ人協会、キリスト教団、赤十字などの援助を受けた。「日本人はやさしかった」と、あるユダヤ人は後に幸子に語っている。神戸と横浜からユダヤ人達はイスラエルやアメリカに渡っていった。


一方,杉原一家は,敗戦後、ブカレストでソ連軍に拘束された。それから先,杉原一家は,収容所を転々としながらシベリアを横断して日本へ送還される過酷な日々を辿る。
半年もの長い旅を終え,ようやく故国の国を踏んだ杉原一家であったが,しかし,日本に戻った千畝は、外務省を退職させられることになる。占領軍総司令部から各省の職員を減らすようにという命令が出ていたのだが、「やはり命令に背いてビザを出した事が問題にされているのか」とも思った。千畝は黙って外務省を去った。

その千畝にイスラエル大使館から電話があったのは、昭和43年8月の事だった。千畝に救われた一人、ニシュリという人が参事官として在日大使館に勤務していた。ユダヤ人達は28年間も千畝を探していて、ようやく見つけたのであった。

ニシュリは、千畝に会うと、一枚のぼろぼろになった紙を見せた。 千畝からもらったビザである。そして千畝の手をかたく握って、涙を流した。

翌昭和44年、千畝は招待されてイスラエルを訪問した。出迎えたのはバルハフティック宗教大臣,領事館でユダヤ人代表として千畝と交渉した人物である。

バルハフティ宗教大臣と29年ぶりに対面
taimenn.png

バルハフティック大臣は、千畝をエルサレム郊外にあるヤド・バシェムという記念館に案内した。ホロ・コーストの犠牲者を追悼するとともに、ユダヤ人を救った外国人を讃えるための記念館である。 杉原はそこに記念樹を植え、勲章を受け取った。その記念館には「記憶せよ、忘るるなかれ」という言葉が刻まれている。


昭和60年1月、千畝はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授けられた。日本人としては初めての受賞である。すでに病床にあった杉原の代わりに、夫人と長男がイスラエル大使館での授賞式に参加した。杉原は病床のまま、翌昭和61年7月31日に亡くなった。

参考文献:
「六千人の命のビザ」 杉原幸子著 大正出版
「自由への逃走-杉原ビザとユダヤ人-」 中日新聞社会部編 東京新聞出版部


DSC04307_R.jpg

Pagination

Trackback

Trackback URL

http://kasehikaru.blog121.fc2.com/tb.php/572-622bb237

Comment

Post Your Comment

コメント登録フォーム
公開設定

Utility

プロフィール

kazu親父

Author:kazu親父
★お知らせ★
2008年12月よりFJR1300Aから BMW R1200RTに乗換えました。
ブログタイトルはこのままにします宜しくお願い致します

風と共に FJR VTR




風と共に FJR VTR

↑ツーリングクラブ ECHO


にほんブログ村 バイクブログ ツーリングへ


カレンダー

プルダウン 降順 昇順 年別

04月 | 2017年05月 | 06月
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -


検索フォーム

ツリーカテゴリー