栄枯盛衰 光と影

足尾線廃線区間■(間藤-足尾本山)

国道122号線で日光へ向かう途中、今は人口三千人に満たない小さな町(足尾)を通過する。
かつて名実ともに日本一の「一大産業都市/鉱山都市」夜間人口3万人を超え昼間人口は7万を超えた足尾町で
現在は日光市に統合された。


足尾銅山夜明け前

1550年(天文19年)に発見と伝えられているが、本格的に採掘が開始されたのは江戸幕府成立後の慶長15年(1610年)とされる。当時、足尾銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と言われるような発展を見せ、当時の代表的な通貨である寛永通宝が鋳造されたこともある。江戸時代にはピーク時で年間1,200トンもの銅を産出していた。その後、乱堀により採掘量が極度に減少する。さらに、銅を作るための燃料や還元剤に大量の薪や木炭を必要としたから、近隣の山は荒れ禿山となり、その結果発生した洪水により足尾の町は大きな被害こうむり、銅の採掘も大きな打撃を受けた。
幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた。

江戸期の採掘
まず、地表に出ている黄銅鉱(露頭)を探し、露頭が見当たればノミと槌で掘って行き銅品位の高い鉱石だけを掘り取る。いずれも人力で抗夫が狭い悪条件下の空間で作業をした。それゆえ地表に近い鉱脈だけしか採取できなかった。


足尾銅山のあけぼの

古河市兵衛のもとに足尾銅山譲渡の話が持込まれたのは明治9年の末である。
江戸幕府が崩壊し明治になると、政府は殖産のため鉱山のすべてを接収して官営にした。足尾銅山も工部省のもとで調査が行なわれたが、明治5年、民営移行の方針が出て、疲弊した状態のまま銅山師に払い下げられた。多くの銅山師が挑戦するが好転がみられず、なかば見捨てられた状態で、このころは福田欣一が経営していた。しかし産銅は低迷を続け、福田が経営資金に窮した結果の譲渡話しだった。それを市兵衛が手に入れたのである。
当時、足尾鉱区は地表に蜂の巣のように掘り穴があり、廃山同然であった。
明治14年には運良く旧坑・鷹の巣抗で直利を掘り当て、15年には本口坑の開坑にとりかかり、16年に大鉱脈を発見した。「横間歩」と呼ばれるこの大直利は足尾銅山隆盛のもととなるものであった。明治18年には阿仁・院内両鉱山を政府から払い下げてもらい、そこにあった近代設備と人材を、草倉鉱山のものに加えて足尾に注ぎ込んだ。鉱石の産出量が増加するなか、明治17年には直利橋製錬所を新設し、18年には本山・有木坑、さらに小滝坑の開鑿を開始する。
銅生産量も明治10年には46トンにすぎなかったものが、17年には約3000トンと日本一の産銅量となり、18年には4000トン超えるにいたったのである。


足尾銅山光輝き

鉱山事業は産業の原点であり、土木・建築・機械・電機・化学と現在は多角化した技術領域を当時の鉱山技術者はすべて総括していた。足尾銅山のみならず、当時の各鉱山からは現在の「技術立国」につながる技術が生長して、新しい企業が育ったのである。
足尾銅山の系譜からは、古河電工・富士電機・富士通・横浜ゴム・日軽金などが誕生した。人脈からは、東芝・日立・ソニーにつながる、それも単に技術陣だけでなく多くの経営陣が巣立っている。(小野崎一徳写真帖より抜粋)


連休最終日(足尾銅山探訪)の予定が足尾の歴史資料調査で終わってしまう
次回は鷹の巣抗にでも行ってみよう(予定)
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