もう一つの真実と誇れる日本道徳

ここでは、太平洋戦争と言わず大東亜戦争と称し
85歳になる自分の親父は大東亜戦争と言う
1945年(昭和20年)8月の日本進駐後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が中心となり、軍国主義、全体主義、極端な国家主義などを日本から排除する政策を行った。その一つが1945年(昭和20年)12月15日付けの日本政府に対する覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(「神道指令」)である。これにより、日本語としての意味の連想が国家神道、軍国主義、国家主義と切り離せないと判断され、「大東亜戦争」は「八紘一宇」(八紘一宇は「世界一家」を意味する語)などの用語とともに公文書で使用することが禁止された。

また、1945年(昭和20年)12月8日(開戦4周年)には新聞各紙がCIE作成の「太平洋戰爭史」の掲載を開始、さらに翌日からは日本放送協会から「眞相はかうだ」のラジオ放送が開始され、「大東亜戦争」という用語は強制的に「太平洋戦争」に置き換えられていった


自分は「過去において、日本は他の国を侵略するために戦争を行った」と思ってきた。
自分の国が悪い国だなんて信じたくないが、そう思わざるをえない
学校でもそう教えられて、テレビや新聞などマスコミの多くもそのように情報を流していた。
戦争のことが話題になると、嫌な気持ちになったものだ。アジアの人々に申し訳ないと思い、
罪悪感から戦争の話題から逃げ出した。そして自らは自信を失くしたのだ。




日本人なら、知っておくべき歴史だと思う





大東亜戦争『開戦』の真実

昭和16年12月8日大東亜戦争が開始された戦後の日本に於いては、この戦争の原因と背景をもっぱら自国内にのみ探ろうとする傾向が著しく強かった(日本の中だけにあの戦争の原因があったのだと言う考え方)
しかし、戦争は当然ながら(相手=敵)がなくては成立しない。敵側の動きにも十分目を届かさなくては、公正な歴史観にはなり得ない。
そこで、その点にも配慮しつつ、大東亜戦争開戦の背景を探ってみると、どう見えてくるか?。
開戦の直接原因は、言うまでも無く、何とか戦争を回避しようと続けられて来た日米交渉の決裂で、その決裂を決定付けたのはアメリカのハル国務長官から11月26日に提示された「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」なる文章(いわゆるハル・ノート)だった。
その内容は、交渉スタート時にアメリカから示された「4原則」(4月16日第3回会談)に加えて、シナ及びフランス領インドシナからの一切の日本の陸・海・空の兵力及び警察力の撤収、(シナ大陸に於ける)汪兆銘政権の切捨てなどを求めるもので、到底日本が受け入れられるものではなかった。
それが日本に戦争を強制するものであることは、ハル長官自身がよく承知していた
このハル・ノートの起案者はハリー・デクスター・ホワイト財務次官。彼は戦後、ソ連のスパイである事が発覚して自殺してる
資本主義国同士の日米戦争はソ連及び国際共産主義の利益にかなう。
だから彼が日本がとても受諾出来ない提案を作ったのは当然。さらにその背景としてルーズベルト大統領自身も対日戦を望んでいた事実がある。
それは8月9~12日にかけてイギリスのチャーチル首相と大西洋会談を行った際、「たとえ攻撃されなくても極東の戦争に参加」する事を約束したと考えられる事も明らかだった。
(これはチャーチルの演説の中のその内容を検討すると明らか)
一方対米戦を避けたかった日本側は、8月に近衛首相とルーズベルト大統領の首脳会談を提案。
そこでシナ本土からの撤兵など大胆な譲歩を示して、昭和天皇の詔勅を頂いてでもその条件の厳守を国内に徹底し、なんとしても日米合意を実現しても戦争を回避する決意であった。
もしこの会談が、実現してれば、日米戦争はさけられていた可能性も、十分考えらる。(それほど日本は思い切った譲歩を考えてた)
だが、対日戦を望むアメリカ側が拒否。
当初ルーズベルトもこれに応じようかと考えたがハル長官がそれを遮って結局その会談は実現しなかった
しかも、これ以前にアメリカは日本資本の凍結(7月25日)と対日石油禁輸(8月1日)に踏み切って石油禁輸は既に戦争行為と言い得る。よって日米戦争は基本的にアメリカから仕掛けられた戦争であった。そう言う性格を濃厚にもってた。
マッカーサーが戦後、大東亜戦争について
「彼ら(日本)が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られての事」と発言した(昭和26年5月3日、米乗員軍事外交合同委員会)もの、そうした事情を踏まえての事であった。
では、アメリカが戦争を意味する石油禁輸に踏み切った理由はなにか?日本軍の南部仏印進駐(7月28日)が直接のキッカケ。
これは、対日包囲網の形成上、重要な地域であり、米英側の手が伸びる前に日本が先手を打ったものだ。
それと共に、近衛首相の側近のコミンテル(国際共産党)スパイで朝日新聞の記者だった尾崎秀美が日本の軍事力が北のソ連に向くのを阻み、(要するに日本の軍事力が北(ソ連)に向かうとナチスの軍事力とソ連は挟み撃ちなって窮地に陥る)
南方に向くように工作を進めていた事の影響もあったであろう。
なお、これより前、ドイツに占領されるのを防ぐべく、先手を打ってイギリスはアイスランドを占領し(昭和15年5月)、アメリカはグリーンランドに空軍基地を建設(昭和16年4月)してる
即ち日本の南部仏印進駐は当時、決して特異なものではなかった
日米対立が激化した起点はどこか?
昭和15年9月の北部仏印進駐で支那事変の最中、アメリカを中心とするイギリス・フランス・オランダなど諸国が、蒋介石政府(日本と事変態勢にある)に対し、資金や武器の援助を行っていた。
その援助物資を輸送するための「援蒋ルート」のうち最も重要ものが仏印ルートで日本としては支那事変の早期終結のため、このルートを遮断する必要があった。
そこでドイツに降伏したフランスのビシー新政府と2ヶ月に及ぶ外交交渉の末、仏印領土保全とフランスの主権尊重、軍隊は6000人以下4ヶ所の飛行場周辺に限定、支那事変解決までの暫定処置である事を明文化した上(松岡・アンリ協定)で9月に平和的に日本軍の進駐を開始した
ところがアメリカはこの協定を認めず、日本に対する屑鉄屑鋼の全面禁輸(昭和15年10月)を断行した
しかし、日本と戦闘を続ける蒋政府への軍事支援は、それ自体事実上の「参戦」と見なす事ができよう
かくて日米戦争の淵源がシナ事変でのアメリカの支那への一方的な肩入れにあったことには疑いの余地がない
その際、ルーズベルト大統領の補佐官で支那問題について独占的に助言してたラフリン・カリーがソ連のスパイであった(後にコロンビアに亡命)事実は重大だ。そもそも支那事変そのものの勃発と拡大についても、中国共産党の策謀(29軍副参謀長張克侠、京ご警備司令官張冶中らの工作)及びその背後にコミンテルンの指導(興亜院政務部編「コミンテルンに関する基本資料」)が有ったことが既に指摘されてる
大東亜戦争に於ける日本の敗北の結果、支那と朝鮮半島北半分が共産化し、東アジアに於けるソ連の存在感は驚異的に拡大した
これはソ連の国際的策謀が大きな成果を生み出した事を意味し、その責任の多くは、ことさら日本を戦争に追い込んだアメリカの失政に帰せられるべきであろう
昭和39年7月に訪中した社会党左派グループが日本の「侵略」を謝罪したのに対し、毛沢東は「(あの戦争が無ければ)中国共産党は政権を奪取する事が出来なかった」と率直に表現してる。
これは、対シナ政策を大きく誤ったアメリカに対する最大の皮肉であろう。
大東亜戦争の開戦をめぐり、日独伊三国同盟の締結など、日本側にも国策上の誤りがあった事は、無論見逃すべきでなかろう。しかし、最も歴史に学ぶべきなのは、シナ問題の本質を見誤ったアメリカではあるまいか。
ヨーロッパに於いて共産圏を拡大させたヤルタ密約が誤りであった事は、既にブッシュ大統領も認めている。
ならば、日本を戦争に追い込む事で、東アジアにおいてそれに劣らぬ事態を招いた事の過ちも、率直に認めるべきであろう
東アジアにおいてアメリカの最も信頼すべきパートナーは日本か中国か。アメリカは今後も歴史を顧みて、懸命な判断を持つべきだ。

もし、あの時アメリカが事態を正確に見通す事ができ、蒋介石政権に対する莫大な支援を停止していたならば事態は大きく変わっていったはずで、支那事変も早期に終結を見ただろう
支那事変の終結を見れば日米の大きな対立も拡大する事なく日米戦争も回避されたに違いない。

真実はどこに・・・・



日本がアジアに残した功績



世界に類を見ない300年の長い平和が続いた歴史に日本の(江戸時代)がある
その平和な歴史の間アジアの国々は植民地時代へと・・・
幕末、西洋列強に対して民族存亡の危機から日本は立ち上がったと言っても過言でなかろう

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民間道徳から教育勅語へ

江戸時代、庶民は仏教・神道・陰陽道・道教などが結びつきあった独自の民間信仰に因る道徳観念を持っていた。

慶応3年(1867)10月、大政奉還が行われ、12月9日には王政復古が宣言され
まさに時は明治維新、時は大きく変わろうとし「五箇条の御誓文」が出されたのは次の年の3月であり、
同じ年に明治元年となった。 この御誓文は、まさに明治時代を象徴するものであったと言えよう。
明治維新とは何であったのか、と考えるとき忘れてはならないのは、それが「維新」であると同時に
「復古」でもあったということである。この「五箇条の御誓文」はまさに、「復古」の象徴とすべきものである。
一見したところでは海外からの輸入品と見られがちな内容であるが、実態は伝統の上に根ざしたもので

以下に訳すと
一広ク会議ヲ興(おこ)シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スベシ
「広く会議を開設し、何においても公の議論によって決めること。」
一上下(しょうか)心ヲ一(ひとつ)ニシテ盛ニ経綸(けいりん)ヲ行フベシ
「上に立つ者も下に立つ者も心を1つに合わせて国のため、活動にはげむこと」
一官武一途庶民ニ至ル迄各其(おのおの)志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦(う)マザラシメン事ヲ要ス
「官史も武士も庶民もみな一つとなって、それぞれの志を遂げることができるようにして、
 国民が失望したりやる気を失うことがないようにしなければならない。」
一旧来ノ陋習(ろうしゅう)を破リ天地ノ公道ニ基クベシ
 「天地ノ公道」とは今で言う「国際法」のことで、当時は「万国公法」と言われた。
 よって、国際法に基づく国を作ってゆこう、という宣言でもある。
 「古くからのしきたりに囚われず、世界に通ずる普遍的な道理に基づいて行動して行こう」
一智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基(こうき)ヲ振起(しんき)スベシ
「知識を広く海外に求めて、大いに日本という国を発展させるべきである」
最後の結びとして
我国未曾有ノ改革ヲ為(なさ)ントシ 朕躬(ちんみ)ヲ以テ衆ニ先シ 天地神明ニ誓ヒ 大ニ斯(この)国是(こくぜ)ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ントス 衆亦(また)此(この)旨趣ニ基キ共心努力セヨ
「我が国はかつてない改革を行おうとしている。朕〔天皇〕はまず先に、天地神明に誓って大いにこの国の方針を定め、万民の保全の道に立とうとする。 庶民はこの趣旨に基づいて、共に心を一つにし、努力すべし」
この最後の結びの最後の1行はほとんどの教科書で省かれているという。


万国公法について (コラム)
万国公法とはヨーロッパ人たちが長い戦いの末にやむなく作った戦いのルールである。
それを日本では最初から善とみなし、自ら守り見に付けるべき目標として受け入れてしまった。
次のような視点に欠けていたのである。

もともと万国公法は、ヨーロッパ中心主義の、
そしてヨーロッパ人にとって自己の戦争を優位かつ合理的に展開するための
ルールとしてつくられた国際法であった。その底には彼らの非キリスト教徒、
非白人への蔑視と、コントロール術が内包されていた。その点に気がつかずして、
幕末の志士たちは、万国公法を学ぶことが文明開化であり、
新しい時代への参入であると嬉々としてこれを迎えた。
文明開化は、長い目で見ると日本にとって、西洋という悪魔とのつき合いの始まりだったのである。
黒船が襲ってきた時の恐怖はすぐ忘れられ、賑やかな西洋文明礼拝の風潮が高まるにつれて、
その文明にはウラがあるなどとは、誰も全く気がつかなかった。日本人の性善説に立つ「単純さ」は、哀れなほどである

明治2年頃から、小中学校が次々に竣成されている。一方で、その学風は急速に西洋化されていったようで
明治5年、一般人(華士族農工商及び婦女子)の全てが学問を学べるよう制度化された。
同年、福沢諭吉が「学問のすゝめ」を出している。そして明治12年、小中学校が十分な数(小学校2万8千、師範学校・中学校196)に達し、
家に不学の人なからしめん」との聖旨は達成された。

そして教育勅語へ
これは、西洋の学術・制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したものである。
もちろん、西洋文明にも宗教(キリスト教)を背景とした道徳教育は存在するが、
それを直接日本人に適用するわけにもいかず、
かといって伝統的に道徳観の基本として扱われてきた
儒教や仏教を使うことも明治新政府以降の理念からすれば不適切であった。
このため、伝統的な道徳観を天皇を介する形でまとめたものが教育勅語とも言える。
こうした道徳観は、伝統的な儒教とは異なるものであり、江戸時代の水戸学からの影響が指摘されている。
教育勅語は明治23年(1890年)に発布された
以下が略
 【天皇の歴史観】
 私、天皇が振り返って考えてみるに、神武天皇の建国は大変な偉業であり、歴代の天皇は道徳の確立に励まれていた。また国民も公的には忠義であり、私的には孝行であった。そんな皆が、心を合わせて美しい日本の姿をつくってきたのは、我が国の最も素晴らしい所である。教育というものも、この部分に由来しているのだ。
 【国民への命令】
 国民達よ。父母を大切にし、兄弟や夫婦と仲良くせよ。友人とは信頼を持って付き合え。自分を謙虚にして、人々とは博愛の心で付き合え。
 学問を習い、技術を身に付けよ。知識を深め、そして道徳を高めるだけでなく、一歩進んで、世の中の役に立ち、世界で活躍するのだ。
 道徳や法律を尊重し、大事が起これば迷う事なく公の為に働け。

 そのようにして、天地の続く限り、永遠に繁栄する日本国をつくってゆくのだ。以上の事を実行する者は、立派な国民となるだけではなく、御先祖様が立派であったことをも証明できるのだ。 
 【結びの言葉】
 以上の言葉は、歴代天皇が教え伝えてきた命令である。
 私やその子孫である天皇も国民も、区別なくこれを守らなければならない。この教えは、どんな時代に当てはめても間違っておらず、どんな国に見られても恥ずかしくなく、立派な教えである。私も国民も常に心掛けて、同じように立派になるよう、切に希望する。


【海外の反応】ちょっと前のにっぽん人




戦勝国の良心


平成3年、日本傷病軍人会代表団が戦時は敵国であったオランダを訪問した際、同国の傷病軍人代表と共に聞いたアムステルダム市長の挨拶が、以下のものである。

「貴方がた日本は、先の大戦で負けて、勝った私どもオランダは勝って大敗しました。今、日本は世界一、二位を争う経済大国になりました。私たちオランダはその間屈辱の連続でした。即ち勝ったはずなのに、世界一の貧乏国になりました。戦前はアジアに本国の三十六倍もの大きな植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で本国は栄躍栄華を極めていました。
 今のオランダは日本の九州と同じ広さの本国丈となりました。あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。
 あなた方こそ自らの血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。何故ならあなたの国の人々は、過去の歴史の真実を目隠しされて、今次大戦の目先のことのみ取り上げ、或いは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史をふり返って、真相を見つめる必要があるでしょう。
 本当は私共白人が悪いのです。百年も三百年も前から競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。植民地や属領にされて長い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想をかかげて、大東亜共栄圏という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
 本当に悪いのは侵略して権力を振っていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現しました。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わりました。その結果アジア諸民族は各々独立を達成しました。日本の功績は偉大です。血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです」





                        (作成:石原 様 / 春を思えば)


この歌について宮沢和史は1996年にねじめ正一とのテレビ対談において「坂本九の『上を向いて歩こう』のような歌を作りたかった」と述べている[2]。また、宮沢はニュース番組「NEWS ZERO」において、「沖縄戦があったことは知っていたが、集団自決やひめゆり学徒隊などのことを知らなかった。その無知だったことに対する怒りや、当時の軍事下の教育に対する疑問みたいなもので怒りがこみ上げて、地下のガマに残っている皆さんの魂を空に解放したいなみたいな思いがあって、東京で『島唄』を作った」と述べている


アメリカは日本に勝つ為必死に日本を研究して日本は敗戦後アメリカから学ぶ事を躊躇わなかった
そして見事な経済復興をとげ
その意味で真珠湾は日米同盟に向かう重要な礎石としての意味も持っていた。
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 大西瀧治郎中将の遺言

特攻隊の英霊に日す 善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。

次に一般青少年に告ぐ 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり 隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ 諸子は国の宝なり 平時に処し猶克く特攻精神を堅持し日本民族の福祉と世界人類の為 最善を尽くせよ。


遺書

お父様、長らく御無沙汰致しております。その後お変わりなく、お働きの事と存じます。

俊郎も至極強健、操縦任務に献身致しておりまする故、なにとぞ御安心下さい。

内地の報を耳に致す度に、我が胸中裂けん思いで一杯です。

馬来の状況も、日一日と悪化致し愈々我が、今に生まれし特攻隊として、
    
敵空母戦艦撃沈さすその時期を、待つのみです。



お父様俊郎は、鎌倉に生まれし事を嬉しく且つ、幸福に存じます。

俊郎、生を受けてより今日まで何一つ孝をなさず。子としての、務めに非ずと

思いしも致せず。

しかしながら俊郎、ひと度び特攻機と、運命を共に致した時はどうかこれが、

俊郎の最初で最期の孝行と思って下さい。

皇民と生まれし我の幸せ、人間一度は死するものなり、黒か白か二つの内一つ

つなり。白き箱にて、帰りました暁にはどうぞ、花の一枝でも上げて下さい。

男の本懐之に過ぐるにあらん。

敵、本土上陸せば親も子も非ず、ただ国に身を尽すのみ。

暫くすれば俊郎と、靖国の社にて親子の対面なり。


ああ壮なる歳、十八歳にして特攻隊として死せるか、悠久の大義に生きるか、

我、笑って死なん。

馬来の夕暮れ椰子の葉、夕日が西に沈まんと欲す。

我一人、遠き郷里の母の顔を瞼に浮かべ、父母の健在を祈る。

願くば靖国に来りて。   

俊郎より

 時枝に告ぐ

我が妹なりと思えば何か、筆を走らさん。

兄として何一つ、面倒を見ずして死するは実に、悔むるところなり。

しかしながら我が志、何か通はん。

十五なりといえども、今は子供に非ず。兄無き後はよく、父母に使へ兄の分まで

孝をなしてくれ。

妹、勝子の指導又大なり。私心に走ること無かれ、本性を理解せよ。
 
                                                         兄より



国(君)の為、何が惜しまん我が命、死して護国の

  神と化しなん





彼らはもっていた
己の命より尊い価値を
それは戦後生まれの日本人の大多数がもってない
価値である

我々はその誇り高き民族意識を忘れてはならない


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