プロローグ
地元に居ながら、その場所にはあまり興味が無かった
幼き頃、親父に連れられ「此処は古河財閥の基礎を築いた地・・古川市兵衛・・云々」と聞かされ、ただ、それだけの思いにすぎなかった
栄枯盛衰を繰り返し、銅山として実に400年の歴史があり山々の下には延べ1200km程の坑道が有ると言う
そして、数多くの人達の想いや歴史を刻んだ場所であった
今、尚その場所を尋ねると、昔はねぇ・・・と話す人も今や老いた人達。
いま一度訪ね見つめよう考えよう、そんな思いから 足尾銅山探訪が始まる
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出発は午後1時
思い立っての行動なので今回は計画性は無し
午後2時には足尾町に入る
一番古い坑道が有る庚申山方面に
庚申川を辿り直ぐに見える庚申山碑 この大きい碑も庚申塔の部類かなぁ〜
とにかく大きい

こんな説明です・・・この説明を見ると、庚申塔で良いんじゃないのかな

同じ場所にある庚申塔 先を急ぐので今回は精査しません・・・何れまた来ますから

庚申山へ向かう俺とシェルパ

昔小学生の頃は砂利道で道も狭く車では通れませんでした
カーブミラーに写る注意親父!最新のツーリング着でまた登場(作業着ですw)

庚申山を登り最初に目に入るのが此処
足尾銅山歴史の悲しい出来事
太平洋戦争中の1942年、東条英機内閣は、日本人男子がみな兵隊にいってしまったことから労働力不足の対策として「華人労務者内地移入に関する件」という方針を閣議決定し、まず試験的に1943年4月から11月まで2000人の中国人を日本国内に強制的に連れてきて、炭鉱や土木工事に従事させました。さらに続いて1944年2月からは本格的に約4万人の中国人を強制的に連れてきてやはり炭鉱やトンネル工事などで働かせたといいます。いわゆるこれが中国人に対する「強制連行」といわれるものです。
朝鮮の人達も例外では無かった
質素な慰霊塔です・・・・
佇み、色々な考えが駆け巡り・・・・合掌。

中国人殉難烈士慰霊塔
足尾銅山(小滝地区)奥へ進み日本近代化時代明治の精錬所/選鉱所跡です

レンガを良く見るとカラミ煉瓦です
「カラミ」とは、銅の精錬で発生する副産物で、この「カラミ」で作ったものが「カラミ煉瓦」と言われる。

昔の小滝の様子
今は人も居ない場所だが・・・昔は賑やかな場所だった。。

少し先に行くと浴場跡


当初の小滝坑道跡

人が一人づつ入れる位のスペース
塞がれた坑道は廃墟と化していく

足尾町指定史跡
小 滝 坑 跡
明治十年(一八七七年)足尾銅山経営を始めた古河市兵衛は小
滝の旧坑(二五〇m先までの堀止)を利用し、明治十八年(一八
八五年)七月にこの小滝坑を開坑しました。
明治二十六年十一月には本山坑(間かく三〇〇五m)と貫通し、
次に立坑で通洞坑(間かく三二七六m)とも連絡するようになり
備前楯山に向かって三坑から採掘が進められました。
この開抗の功労者は笈川清七と木部末次郎であり、当時下駄づ
くり小屋が一軒しかなかったこの土地に、小滝坑を中心に銅山の施
設と集落が出現し、大正年間には人口一万人余となりました。
昭和二十九年(一九五四年)銅山の経営合理化により小滝坑が廃
止されるとともに銅山の施設が全部撤去されて今日に至っています。
当時の名残を小滝坑と前岸のさく岩機練習のノミ跡にとどめて
います。小滝坑の小坑は、旧坑のひとつです。
昭和五十一年三月十五日 足尾町教育委員会
この索道橋の向こうに小滝坑道が有る

塞がれた坑道の横には
入り口を改修した時期が刻んであるのだろう
固く鉄の扉で塞がれた向こう側からは冷たい不気味な風が吹き出し
昔の坑夫の声の様にも聞こえた
昔と変わらぬ川の流れは今も足尾の栄枯盛衰を知らぬ如く
ただ下流へと流れて行く

昔、家々が軒を連ねてたであろう街道をシェルパで行く


次なる道は本山坑道を目指し赤銅みちをシェルパと

頂上付近の船石

この頂上から本山坑道や近辺を眺めると
鉱毒ガス(主成分は亜硫酸ガス)と鉱毒(主成分は銅イオンなどの金属イオン)により、付近の環境は大きな被害を受け、今だに木々が生息しない不毛な山肌が見え始める

不毛の山肌の中を駆け抜ける

不毛の山となった今では最近改修した砂防ダムも限界が来てる

この上の様子を見てみよう
雨による侵食で山肌が小さな岩となり流れ出し砂防ダムは限界
大雨になれば俺の嫌いな鉄砲水が
毎回押し寄せるだろう・・・・・・
怖いので早めに退散する
次回の足尾探訪シリーズは
本山坑道&古川精錬所予定

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