1969年の発売以来、爆発的なヒットを飛ばしたホンダドリームCB750Fourで幕開けとなったナナハン時代。
一方1970年代は排ガス規制や第1次オイルショック等で数奇な運命を辿ったバイクも・・・・・
今では国産1000ccを超える国産バイクが多数走るが、1970年代当時750ccを超えるバイクはハーレー等輸入バイクで750ccを超える排気量は滅多にお目にかかれなかった
若者達の最上バイクは750cc、その国産バイク750ccは性能面で海外製輸入バイクに決して劣る事は無かった(日本バイクメーカーが外国二輪メーカーに肩を並べそしてそれ以上の品質を誇れる時代となって行くのである)
また、ナナハン時代の幕開けと共にその高性能ゆえ、若者の交通死亡事や故暴走族問題等で大型免許取得は非常に困難な時代となって行き、バイク生産先進国となる日本とは逆行して1975年~1996年まで若者のバイクは400cc(中型)となり、ナナハン時代で大型バイクに乗れる若者は少なくなった記憶が個人的にある。
Part2ナナハン時代(数奇な運命を辿った名車)カワサキホンダドリームCB750Four発売当時既にカワサキもZ1の開発中であり1972年903ccのZ1を欧米で発売し
日本国内では業界の自主規制により750cc超のオートバイは販売できなかったため、750ccクラスの国内版モデルが必要であった。当初はZ1のエンジンをボアダウンして発売する予定だったが、結局ボアとストロークの両方を変更して排気量を750cc(正確には746cc)とし、ホンダドリームCB750Fourに遅れる事'73年4月に750RS(型式Z2)として発売した。
1969年に発売された 2 ストローク空冷 3 気筒 500 cc のマッハIII (H1) はその強烈な加速性から欧米で好評を博したが、やや遅れてホンダCB750が発売されると、性能的には大差なく、価格はおよそ 1.5 倍であるにもかかわらず次第に人気を奪われるようになった。

ZⅡ開発中の間、対抗馬として少なくとも加速性能や最高速度でCB750を上回る世界最速としてH1のエンジンのボアストロークを拡大し750cc(H2)を発売する
1970年代オイルショックにより750ccH2は1972年発売開始1975年モデルで生産終了となる。
数奇な運命を背負った短命な名車だろう?

私の高校時代は750ccマッハは滅多にお目かからず、このタイプの500ccマッハは友人が乗ってた。
500ccでも加速は怖い程で、ある回転数で急激に吹き上がる恐ろしさは今でも記憶に残る
ホンダドリームCB750Four発売後1973年4月にカワサキから750RS(型式Z2)として発売した。

DOH国産車初のDOHC4気筒である
スズキ2サイクル名門メーカーと言っても過言では無い
(現在は規制により2サイクルエンジンバイクは国内で発売されてないが・・1978年当時ハスラーの原型がTF125やTF185で今でも国内生産され南アフリカに農業用バイクとして輸出されてる)

TF125(2サイクル空冷125cc)
1994年から2003年まで日本メーカーが2ストロークレプリカバイクの生産を終了してからもスズキはイタリアのバイクメーカーアプリリアに2ストロークエンジンを供給してた

アプリリア RS250
1960年代当初にはじまった250㏄クラスのロードスポーツ・ブームに、スズキは乗り遅れていた。
実用車しか持たないスズキは、好調に販売実績を伸ばすホンダやヤマハに対向できる、本格的なロードスポーツの開発が急務となっていた。また、後発のカワサキの動向も、スズキの危機感をいっそう煽ることになった。T20の開発計画は、1963年にはスタートし、“世界最高水準の250㏄クラス”の開発が至上命令とされていた。つまり、ホンダCB72、ヤマハYDS1といった国内のライバル・メーカーの製品をターゲットに、これらを凌駕するロードスポーツの開発をめざしていた。

1965年世界一速い250㏄ロードスポーツとしてSuzuki T20 X6 デビュー
1968年T500

T20でアメリカ市場に参入以降、スズキはトレール系が好調に売れ行きを伸ばしていた。
しかし、一方では大排気量モデルの需要が、確実に高まりつつあり、国内メーカーも、ホンダがCB450 、カワサキがW1といった具合に、大型モーターサイクルの生産を開始、アメリカ市場の日本車における大型モーターサイクル・ブームはいっきに加速されることになる。
こうした市場のニーズをはやくから察知していたUSスズキでは、繰り返し、大排気量車の必要性を本社サイドに訴えていた。しかし、2サイクルエンジンにとって、大型モーターサイクルの開発は、多くの難問をはらんでいた。
2サイクルは、生ガスが燃焼済みのガスを追い出す仕事があり、排ガスを掃気で排出することにより気化熱による冷却が期待できない。
一般には当時、2サイクルは1シリンダーあたりの限界排気量は250ccが限界とされてた。過去にツンダップやエムロといったメーカーから、500ccの2サイクル・エンジンが開発発表されたことはあったが、、そのどれもが熱の問題をクリアできずに開発半ばにして挫折していた。
しかし、スズキはあえて、500cc2サイクル・ツインの開発を決断した。これは、2サイクルのトップメーカー、スズキのプライドをかけた挑戦だった。設立間もない技術センターの2輪設計室では、若手の技術者たちが中心となって、未知の領域への挑戦を開始していた。だが、未曾有の大型2サイクル・エンジンの設計では、当然のごとく多くの壁に直面することになった。
問題はやはり、シリンダー内のクーリングにあり、エンジンの異常振動、スリーブの引っ掻き傷など、シリンダー温度の上昇にともなう様々なトラブルが発生して、技術陣を悩ませた。しかし、こうしたトラブルの原因は、若手スタッフの懸命な努力によって、ひとつひとつ根気よく克服されていったのである。
1967年のモーターショーは、期せずして2サイクルの大型ロードスポーツの発表ラッシュに沸くことになった。このショーで、スズキの新500ccロードスポーツ、『T500』もマニアの前に公開された。同じショー会場では、ヤマハ、カワサキ、ブリヂストンからも350ccモデルが、同時に発表され、これらのモデルはどれをとっても、それぞれに個性に富み、魅力にあふれていたが、スズキのT500 の前では影が薄れがちだった。それほど、500ccという排気量はインパクトが強かった。
しかし、47ps/6500rpm という最高出力は、軒並みリッター100馬力を達成していた他の350ccエンジンに比べれば、驚くほどのハイパワーとはいえなかったが、
T20から一挙に倍の排気量を得たT500からは、もはやピーキーとか神経質といった形容詞は消えることになった。T500 はトップスピードの180km/hまでパワフルに、しかも穏やかに加速したのである。こうした特性はアメリカ市場でも好評をもって迎えられた。
後のナナハン時代で登場した2ストローク大型バイクはカワサキマッハⅢ スズキGT750と2ストローク勢をもってナナハン時代の幕開を迎える。
ナナハン時代の大型2サイクルバイクはその特性が考えられ全て3気筒が主流となるが、現在大型バイク2サイクルは時代背景により既に数奇な運命を辿ったバイクとなった。
(回想・・・高校時代大型バイクで長距離ツーリングに行った思い出の中に、こんな出来事があった。
既に私はRX350からCB500フォアに乗換えて仲間達はCB750やRS750中に500ccマッハⅢが有った。標高の高い山を経由したツーリング道中でマッハⅢだけ熱ダレをした覚えがある。今考えるとその2サイクル大型排気量が原因ではなかろうか?・・・定かではないが・・・ふと2サイクル大型エンジン特性かと思う?)
ナナハン時代の立役者ホンダドリームCB750Four発売から次のナナハンの登場はスズキGT750だった。

当時としては珍しい水冷方式。先のビックツインT500の開発からその2サイクルの難点を克服し大排気量2ストロークの熱対策により多気筒化にするも中央のシリンダーはその熱によりやはり熱ダレが発生しやすいのでさらに信頼性を高め水冷にしたものだと思う。
後のGTシリーズGT550・GT380も2サイクル3気筒となる水冷には至ってないが、シリンダーヘッドに設けられた角張った空気導入ケースにより流速を高めて冷却効果を狙った独自の「ラムエアーシステム」を採用してる。
GT750と比べると排気量はそこそこ違うが500ccのマッハⅢとの乗り心地を比べるとその2サイクルのピーキーな感覚よりトルクの太い走りでスムーズな加速感だったが、4サイクル4気筒のCB750より遥かにその加速性能は勝ってた。
この2サイクルGTシリーズは、排ガス規制やオイルショックの影響で1977~1978年の最終型となり生産は打ち切られた
1970年に実はスズキで別のプロジェクトが進んでた
2サイクルエンジンからの脱却として開発がスタートしたかは定かでないが・・・・
設計の狙いとして
1)レシプロエンジンの750ccに匹敵する性能を有するツーリングモデルであること
2)信頼憧,生産性,経済性,サービス性及び安全性を十分考慮したエンジンであること
以上のねらいを追求した結果,単ロータ,水,油冷却方式,単室容積497ccの基本レイアウトとした.

スズキ・RE-5(ロータリーエンジン)
開発段階において、REのネックといわれていたチャター・マークがハウジング内壁に残る現象や、軽量と思われていたREがMCにとっては予想外に重いことがわかり、車体の剛性強化を図り、サイドハウジング等使用できる個所にできる限りのアルミ合金を使い軽量化を図った。また、RE開発は、アフター・バーニングでマフラーがまっ赤にやけたり、ハウジングの一カ所だけが異常に高温になるなど、″熱″との戦いでもあった。ローターは油冷、ハウジングは水冷、そして排気はラムエア・システムの二本ふり分けの二重マフラーにするなど、効率のよい冷却システムで、この問題を解決した。
1973年夏、秋のモーターショーの発表を前に量産試作車が完成し、谷田部のテストコースで走行テストが行われた。高速走行時でも、バックミラーが少しもぶれない程の振動の少なさや操安性のよさに、開発スタッフは改めて驚かされた。それに、走地燃費は水冷2サイクルの750車よりも20パーセントいい数値(しかしどうしても4サイクルに劣る)を出した。同年秋のモーターショーは、シングルローター式バンケルRE搭載、ジユジアーロ・デザインの”スズキRE5″497cc、最大出力62psの話題でもちきりとなつた。
その後、海外を含め延べ50万キロに及ぶ実走行テスト(15、16台走った)を終えて、1975年1月、スズキは「RE5」の量産態勢に入った。
しかし、国内販売はロータリーエンジンの排気量の問題が解決されず、ついに国内販売を断念、輸出のみにしぼらざるを得なかった。
RE5の海外での評価はすこぶる高く、”さあ、ロータリー時代の幕開けだ!”とさえ思われたのだが・・。 1973年10月、第4次中東戦争が勃発。中東産油国が石油戦略を発動し、世界的に”石油ショック”が起こつた。
1977年スズキは、発売2年目にして「RE5」の生産中止を決定。結局2年間で僅かな台数(6,000台程度)が生産・輸出されただけにとどまる結果となってしまった。

2009年の夏この最終型が中古で売りに出され現物を見に行った
RE5は既に35年近くの歳月が経ってる。しかしそのエンジンは今尚元気に動き
RE5ロータリーエンジンにはエンジンオイル、ミッションオイル、メータリングオイルの3種類のオイルが使われて
細部までこだわったその姿はスズキの威信と技術の粋が所狭しと詰まったバイクだった
実際に乗ってた人によると、燃費はそれほど悪く無く最高で19km/L位だそうだ。
現在のリッターバイクと同等?もしくは良いか?まぁ乗り方に依って変わるが、ちなみにBMW R1200RTでもその位の燃費である。
そして未だに元気に走るRE5の完成度に感心する。
完成したエンジンの特徴として,
1)ロータリエンジンの特徴を生かしたスムーズネスと優れたフィーリングを有する
2)高速から低速までフラットなトルクカーブ
3)生産性,サービス性を考慮し,動力発生部を1ユニットとし,機関本体より脱着可能とした
4)サイドハウジングは放熱性向上,軽量化のため,モリブデン局部溶射を施したアルミ合金を採用
5)ロータハウジング内面メッキは,耐摩耗性向上のため,CEMメッキ(Composite Electro Chemical Materialの略で一種の複合メッキ)を採用した
6)アペックスシールは優れたガスシール性能を特徴とする3ピースセルフアジャスティングシステムを採用.材質はチャターマーク発生防止及び耐磨耗性、強度を有し,CEMメッキに非常にマッチングしたチタン炭化物を主体とする焼結合金(商品名:フェロチック,中外電工製)である。
7)ロータ冷却用循環オイルのシールにピストンリング形を配し,オイル上がりを少なくし,優れたオイル消費量を可能にした。
8)車体に設けた別系統のタンクより,メータリングポンプを介し,常に新鮮なオイルを燃焼室に供給し,シール類の耐久性向上及びデポジットによるプラグ汚損などを防ぎ,信頼性を確実なものとした。
9)ペリフェラルポート吸入方式の欠点を取り除くため,吸入孔を多孔式とし,低高速回転時のポートタイミングを変え,出力と燃料消費量の両者を満足させた。
10)点火系にCDイグナイタをを採用した結果,優れた始動性とプラグの耐汚損性を確保できた。
11)新機構の間引点火方式の採用により,減速時のドライバビリティーを向上させた。
12)キャブレターのチョークに自動ガス薄め機構を採用し,ミスチョークによるプラグかぶり防止と,二輪車としてしばしば使われる始動即発進を可能にした。
13)排気孔に放熱性のよい耐熱アルミ合金マニホルドを取り付け,なお,マフラにかかる熱負荷を下げ安全性、耐久性を増すため2本マフラを採用した.また,マフラ後部にエジェクタシステムを採用し,二重構造とした内,外筒の間に冷却空気を流し,マフラボデー、排気ガス温度を下げ,より安全設計に徹底した。
RE5も時代の流れに翻弄され数奇な運命を辿った名車だろう。
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