新型3気筒MT-09からXS750Specialを思い出す
- 2014/03/31 17:38
- Category: バイク::バイク一般(雑記)
30数年前ヤマハからGX750やXS750Specialが登場し
再び3気筒マシンMT-09が登場した
高校時代ヤマハRX350からCB500Fourを経て
1979年所有したXS750Special(二十歳の頃)
3気筒独特のパルス感が有り回転の上昇と共にマルチの様相が楽しめたマシン
'81年に3気筒・GX750やXS750Specialは5年間の生産に幕を降ろす。

1970年代後半既に大型二輪限定解除制度となり若者のバイクは400ccへと移行するが
現在はその規制も緩和され教習所で大型免許が取得可能となり男女問わず大型二輪の人口が増え喜ばしい事だ。
今や3気筒は英トライアンフの象徴でMT-09はトライアンフの二番煎じかと思われるが・・・そうでも無いと思う
1970年後半日本車の存在と将来確実に厳しくなるだろう「規制」1960年代まで英国車の「トライアンフ」や「BSA」などとビッグバイクの主要マーケットであったアメリカで大きなシェアを誇っていた。しかし70年代に入り、日本からホンダの名車「CB750フォア」やカワサキ「Z1」が登場し、状況は一変した。その圧倒的な性能と、低価格は「トライアンフ」や「BSA」との差を決定的なものとし、みるみる業績を悪化させていく。結局、3気筒などのエンジンで対抗しようとした「トライアンフ」や「BSA」は日本の技術力に屈し、瞬く間に倒産に追い込まれてしまった。
大型モーターサイクルには4サイクル化の流れが押し寄せた。ヤマハも「2サイクル&4サイクル」の打ち出しの元、'70年XS-1に続いて'72年TX750、'73年TX500を投入したが、4サイクル技術で先行するホンダCB750やカワサキ750RS(ZII)との差を埋めきれず、市場の評価は国内・海外ともに厳しさを増すばかり。GX750の開発は、そうした危機的な状況を打開するプロジェクトとして、'73年夏からスタートした。
ヤマハらしさのこだわりが生んだ3気筒
最初から750cc・3気筒に決まっていたわけではない。すでに海外でホンダGL1000、カワサキ900Super4(Z1)などが人気を博していることを考えると、少なくとも国内最大排気量の750ccは必須条件だった。さらに、レイアウトをどうすべきか。 まずTX650ベースの900cc・2気筒を叩き台としながら検討が重ねられ、排気量は750ccと決まった。しかし問題はそこからだった。本社エンジン開発スタッフは、他社モデルと真っ向勝負の4気筒。アメリカの商品企画担当者は、他社にない3気筒エンジンによる差別化を主張して譲らない。さんざん議論を尽くした末に、担当役員の判断も加えられ3気筒とすることで決着した。
4気筒に比べて横幅が狭くコンパクトな3気筒エンジンは、車体のバンク角を十分に確保しながらエンジンの搭載位置を低くして低重心化することができ、操縦性の面でもデザイン面でも有利に働く。そうした「軽量・スリム・コンパクト」に対するこだわりと、4気筒に負けない高性能・高品質な3気筒を創るというチャレンジスピリット。それが「他社とは違うヤマハらしさ」につながるという判断だった。
翌年には、3into2マフラーの採用、燃焼室形状やバルブタイミング、キャブレター変更などで最高出力を67PSにアップした。この時マフラーを変更した理由はもうひとつある。3気筒分を1本にまとめる太いマフラーでは右コーナーでの深いバンク角に影響を与え、また重量バランスのわずかな偏りが左右のハンドリングの違いに微妙に影響を与えたからだ。3気筒ツアラーとは言いながら、ハイパフォーマンスを売り物にして得意げな4気筒750ccモデルに負けまいとする、対抗心の表われであった。
そして'78年以降、GX750の3気筒エンジンとシャフトドライブはますます熟成が進み、アメリカン的なデザインを取り入れて海外モデルの名称“XS”を冠したXS750スペシャル、排気量を拡大した海外向けモデルXS850、XS850ミッドナイトスペシャルなどさまざまなバリエーションモデルを生み出していく。
'81年に新しい時代を担う4気筒モデルXJ750Eがデビューすると、3気筒・GX750ファミリーはそのまま主役の座を譲り、5年間の活躍に幕を降ろす。その後現在に至るまで、ヤマハモーターサイクルのラインナップに4サイクル3気筒モデルが登場することはなかったが、今回ヤマハから発売されたMT-09はライダー達にどんなインパクトを与えるだろか。
再び3気筒マシンMT-09が登場した
高校時代ヤマハRX350からCB500Fourを経て
1979年所有したXS750Special(二十歳の頃)
3気筒独特のパルス感が有り回転の上昇と共にマルチの様相が楽しめたマシン
'81年に3気筒・GX750やXS750Specialは5年間の生産に幕を降ろす。

1970年代後半既に大型二輪限定解除制度となり若者のバイクは400ccへと移行するが
現在はその規制も緩和され教習所で大型免許が取得可能となり男女問わず大型二輪の人口が増え喜ばしい事だ。
今や3気筒は英トライアンフの象徴でMT-09はトライアンフの二番煎じかと思われるが・・・そうでも無いと思う
1970年後半日本車の存在と将来確実に厳しくなるだろう「規制」1960年代まで英国車の「トライアンフ」や「BSA」などとビッグバイクの主要マーケットであったアメリカで大きなシェアを誇っていた。しかし70年代に入り、日本からホンダの名車「CB750フォア」やカワサキ「Z1」が登場し、状況は一変した。その圧倒的な性能と、低価格は「トライアンフ」や「BSA」との差を決定的なものとし、みるみる業績を悪化させていく。結局、3気筒などのエンジンで対抗しようとした「トライアンフ」や「BSA」は日本の技術力に屈し、瞬く間に倒産に追い込まれてしまった。
大型モーターサイクルには4サイクル化の流れが押し寄せた。ヤマハも「2サイクル&4サイクル」の打ち出しの元、'70年XS-1に続いて'72年TX750、'73年TX500を投入したが、4サイクル技術で先行するホンダCB750やカワサキ750RS(ZII)との差を埋めきれず、市場の評価は国内・海外ともに厳しさを増すばかり。GX750の開発は、そうした危機的な状況を打開するプロジェクトとして、'73年夏からスタートした。
ヤマハらしさのこだわりが生んだ3気筒
最初から750cc・3気筒に決まっていたわけではない。すでに海外でホンダGL1000、カワサキ900Super4(Z1)などが人気を博していることを考えると、少なくとも国内最大排気量の750ccは必須条件だった。さらに、レイアウトをどうすべきか。 まずTX650ベースの900cc・2気筒を叩き台としながら検討が重ねられ、排気量は750ccと決まった。しかし問題はそこからだった。本社エンジン開発スタッフは、他社モデルと真っ向勝負の4気筒。アメリカの商品企画担当者は、他社にない3気筒エンジンによる差別化を主張して譲らない。さんざん議論を尽くした末に、担当役員の判断も加えられ3気筒とすることで決着した。
4気筒に比べて横幅が狭くコンパクトな3気筒エンジンは、車体のバンク角を十分に確保しながらエンジンの搭載位置を低くして低重心化することができ、操縦性の面でもデザイン面でも有利に働く。そうした「軽量・スリム・コンパクト」に対するこだわりと、4気筒に負けない高性能・高品質な3気筒を創るというチャレンジスピリット。それが「他社とは違うヤマハらしさ」につながるという判断だった。
翌年には、3into2マフラーの採用、燃焼室形状やバルブタイミング、キャブレター変更などで最高出力を67PSにアップした。この時マフラーを変更した理由はもうひとつある。3気筒分を1本にまとめる太いマフラーでは右コーナーでの深いバンク角に影響を与え、また重量バランスのわずかな偏りが左右のハンドリングの違いに微妙に影響を与えたからだ。3気筒ツアラーとは言いながら、ハイパフォーマンスを売り物にして得意げな4気筒750ccモデルに負けまいとする、対抗心の表われであった。
そして'78年以降、GX750の3気筒エンジンとシャフトドライブはますます熟成が進み、アメリカン的なデザインを取り入れて海外モデルの名称“XS”を冠したXS750スペシャル、排気量を拡大した海外向けモデルXS850、XS850ミッドナイトスペシャルなどさまざまなバリエーションモデルを生み出していく。
'81年に新しい時代を担う4気筒モデルXJ750Eがデビューすると、3気筒・GX750ファミリーはそのまま主役の座を譲り、5年間の活躍に幕を降ろす。その後現在に至るまで、ヤマハモーターサイクルのラインナップに4サイクル3気筒モデルが登場することはなかったが、今回ヤマハから発売されたMT-09はライダー達にどんなインパクトを与えるだろか。