渡良瀬川は北関東を流れる利根川水系利根川支流の一級河川、流路延長107.6kmで利根川の支流。
栃木県日光市と群馬県沼田市との境にある皇海山(すかいさん)に源を発し、足尾山塊の水を集め草木ダムを経て南西に流れる。群馬県みどり市で南東に向きを変え、桐生市から足利市・太田市・佐野市・館林市など、おおむね群馬・栃木の県境付近(両毛地域)を流れる。栃木県栃木市藤岡地域で南に向きを変え、渡良瀬遊水地に入り巴波川(うずまがわ)、思川を併せる。茨城県と埼玉県の県境を南へ流れ、茨城県古河市と埼玉県加須市の境界で利根川に合流する。Wikipediaより
渡良瀬川周辺で19世紀後半明治初期から栃木県と群馬県で起きた日本初の公害事件(足尾銅山鉱毒事件)として影の歴史があり、今なお影として問題が残る

この渡良瀬川に沿って、古くから街道と鉄道が通る。
江戸時代に切り開かれた街道は「銅(あかがね)街道」といわれ、現在は一般国道国道122号の愛称となっている。
鉄道の方は明治末から大正の初期にかけて開通したもので、最初は民鉄(古河)の「足尾鉄道」であったものが「国鉄足尾線」「JR足尾線」を経て、現在は第三セクターの「わたらせ渓谷鐵道」が経営する「わたらせ渓谷線」になっている。

草木ダム手前の神戸駅舎

神戸駅から県道345号線で草木ダムに向かう途中に有る廃線(トンネル)
草木ダム建設と同時に路線が水没する国鉄足尾線(現・わたらせ渓谷鐵道)の付け替え工事(草木トンネル建設)で草木湖を迂回するが、旧国鉄足尾線草木駅は水没する


県道側から見上げる草木ダム

ほぼ満水状態の草木湖

足尾へ国道122号線で足尾トンネルを抜ける直ぐに原堆積場跡が見える。国道沿いの白く長い壁は堆積場跡を補強したもの大きな堆積場跡と解る


堆積場は、明治30年の鉱毒予防工事命令により大正6年に設置され昭和35年までの43年間使用され
今現存する簀子橋ダム使用以前、スライムは遠下の排泥処理場に運ばれ、ドレッジャーで水と泥を分離し、泥をバケットですくい、脱水乾燥して鉄索で原堆積場に搬出、堆積した。
原堆積場に初期堆積した排泥の一部は戦後再処理して収銅したことがあった。
昭和29年簀子橋ダムの使用開始とこれに伴う索道運搬の廃止で、
旧国鉄足尾線の左手車窓から見えるこの堆積場の活動は停止され、
その後の緑化の進展でこの写真の情景は見られなくなっている。

現在の原堆積場の様子


足尾銅山には同様の堆積場が12か所あったが、現在は昭和35年に設置された簀子橋堆積場に集約される。
地震で土砂流出 鉛、基準の倍検出/足尾銅山
東日本大地震で、渡良瀬川では(足尾鉱毒で知られる) 旧古河鉱業の鉱泥堆積積が崩落するという問題も起きています。
◆鉛、基準の倍検出/足尾銅山、土砂流出
(朝日新聞栃木版 2011年03月13日)
http://mytown.asahi.com/tochigi/news.php?k_id=09000001103130002
11日の地震で、旧古河鉱業(現・古河機械金属)の足尾銅山で使用された日光市足尾町原向の源五郎沢堆積(たい・せき)場から渡良瀬川に土砂が流出、川水から環境基準の約2倍の鉛が検出されたことが12日わかった。約40キロ下流では、群馬県桐生市と太田市、みどり市の3市が水道用に取水している。同社は「取水地点までにダムや沢からの流入で十分希釈できる」(池部清彦・足尾事業所長)としているが、土砂の除去を急ぐとともに1日に2度の水質検査を続けるという。
現場はわたらせ渓谷鉄道の原向駅から下流に約400メートルの地点。土砂が樹木とともに地滑り状に約100メートルにわたって崩れ、同鉄道の線路をふさいで渡良瀬川に流出した。
堆積場は、銅選鉱で生じる沈殿物(スライム)などを廃棄する場所で、土砂は銅のほか鉛、亜鉛やカドミウムなどの有害物質を含む。足尾事業所が12日、下流2キロの農業用水取水口で水質検査したところ、基準値(0・01ppm)を上回る0・019ppmの鉛を検出した。他の物質は環境基準を下回っているという。現場は流出した土砂の水際が青白く濁っており、同事業所も「堆積場の物質が染み出ている」と認めている。
源五郎沢への廃棄は1943年に始まったが、58年に決壊して下流に鉱毒被害を出し、翌年から使用を停止していた。
小滝地区から備前楯山山頂へかつて賑わいを見せた小滝地区。今は微かな遺構を残し自然に帰って行く





小滝の製錬所。文象川のそばにあったが、明治30年の鉱毒予防工事の命令を受けて直利橋製錬所に合体された。跡地は沈殿池となる
(明治28年以前撮影小野崎一徳写真帖より)

小滝地区の中心部。右手前には事務所・選鉱場が写っている。対岸に並んでいるのが社宅、画面左端中央の洋館が病院である。両岸を結ぶ画面中の馬立橋は今はない。
(大正7年ごろ撮影小野崎一徳写真帖より)

備前楯山

江戸時代の末期、足尾の銅生産は年間60 トンに満たない細々としたレベルに落ち込んでいた。
所有者だった明治政府は、調査の結果「見込みなし」の報告を得て、民間に払い下げる方針を固め
た。それに応じたのが古河市兵衛である。
それまでの鉱山業の経験から、足尾はモノになるという
カンが働いたのだという。明治10 年(1877 年)のことであった。
日本近代化の礎となった足尾銅山(備前楯山)
シェルパで備前楯山を周る(右写真は楯山坑道地図)


買収後しばらくは、渋沢栄一、志賀直道との三者による共同経営だったが、ほどなく鉱山経営のプロでもあった古河市兵衛単独の事業となる。その時、古河市兵衛は46 歳。上昇志向の強いワンマン経営者としてスタートし、その後、没するまでの26 年間、足尾を日本一の鉱山に発展させることに精魂を傾けた。
発展のきっかけは、
明治14 年(1881 年)旧鷹之巣抗神保樋の直利と明治16 年(1883 年)本口抗横間歩大直利(大鉱脈)の発見である。
直利(なおり)とは品質が高くて鉱脈の巾が広い鉱石の意味。明治10 年(1877 年)の年間生産量はわずかに47 トンだったが、10 年後には3千トンを超え、その5年後にはさらに倍増する勢いであった。
生産した銅はほとんどが輸出に回された。当時、銅は世界市場において高値で取引され、欧米を中心に
送電・電信・電話網建設が急ピッチで進み、電線製造用の銅の需要は限りなく大きかった。
また、砲弾の先端には銅合金が不可欠だったことなど、軍事の需要も大きかった。
一方、日本の国内需要はまだ少ない。そのため明治時代の日本は、現在のような「資源小国」ではなく、銅の
世界市場で5%を占める「資源大国」だったのだ。
銅は生糸・絹製品に次ぐ第二の輸出品の位置を占めていた。日清戦争(1894 年8月〜1895 年3月)、
日露戦争(1904 年2月〜1905 年9月)の装備は、銅輸出の収入によって整えたという。
外貨を獲得して軍備を充実させる。帝国主義時代の列強の最後尾に連なった新興国日本の、銅鉱業は戦略産業であった。
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また、古河市兵衛のキーパーソンとして(渋沢栄一)が大いに貢献してる
渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の養蚕と藍玉生産を営む豪農の家に生まれた。激動の時代である。
江戸に出て尊王攘夷運動に参加、その後一橋慶喜に仕え、慶応3年(1867 年)にフランスに留学する。
明治維新の直前の留学で、そのため江戸から東京への政変を目撃することは叶わなかったが、
フランス滞在期間に、明治新政府の経済政策「殖産興業」の具体策を練ることに専念することができた。
明治2年(1869 年)に帰国、大蔵省に出仕する。そこで租税関係の仕事を通じて、小野組の番頭格だった古河市兵衛との縁ができる。
二人は相性が良かったということだろうか、肝胆相照らす仲になる。
二人の間がとりわけ緊密になった有名なエピソードがある。
明治6年(1873 年)は、混迷を極めた年であった。徴兵令、地租改正が相次いで布告され、藩閥政府に不満を持つ士族と農民の一揆が全国で続発した。西郷隆盛の征韓論が敗れ、西郷支持派が政府から去った。
その混迷の中で、渋沢栄一は日本初の民間銀行「第一国立銀行」を設立し、初代総監役に就任した。
国立という名称がついているが、国家規模のという意味で、民間銀行である。
また、総監役とはCEO のことである。 銀行は順調にスタートしたかにみえたが、たちまち危機を迎える。政府の金融政策の突然の変更で、貸出先の三井組・小野組がピンチに陥る。
その煽りで銀行存続が危うくなった。破産した小野組に対する貸出金の過半は、番頭の古河市兵衛の名義になっている。進退極まった古河市兵衛だったが、渋沢栄一の銀行を救う決心をした。
自分の全財産を投げ出して穴埋めに提供したのである。
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足尾の急速な発展のためには、第一に迅速な人材育成が必要である。 渋沢栄一は、まず欧米から技術者を呼び寄せて雇うことを薦めた。
期限付きで雇った外国人からすでに完成した技術を学ぶ。次には、学んだ若い技術者が指導者になって同僚に広める。さらに、将来性のありそうな学生や技術者候補を短期留学生として欧米に派遣し、学んだ知識を帰国後すぐ
に現場で活用する。
古河市兵衛は渋沢栄一のアドバイスに従った。
早速、若くて優秀な技術者に指示して、系列の鉱山に来ていた外国人に学ばせ、欧米に多数の留学生を派遣し、帰国すれば重用した。このやり方が成功したのは、日本人の若者に知識を吸収し応用できる潜在力があったからなのは、言うまでもない。明治23 年(1890 年)に、足尾に日本初の水力発電所を建設した山口喜三郎もその一人だった。
(間藤発電所 明治28年以前の撮影。小野崎一徳写真帖より)

(間藤発電所の内部。撮影は明治28年以前の撮影。小野崎一徳写真帖より)

足尾地区の水力発電所一覧。(高岩安太郎『足尾銅山景況一班』より)

遺構として残る間藤発電所

第二に薦めたのは、最新技術の国産化である。 留学生にはアンテナの役割もあった。欧米の新技術情報を収集するアンテナである。そして、銅の生産に役立ちそうな新しい装置、新しい機械をほとんど時差なく導入した。
しかし、輸入品に依存はしない。導入した製品の技術を日本人に合わせるという名目で改良改善して国産化し同時に性能を高める。
削岩機1866年、スウェーデンのノーベルが爆薬を発明したのを契機に、米国のバーリーが先のファウルの特許を買い取って改良し、米国で最初の空気打撃式鑿岩機の実用化に成功した。1871年にはサンドビック社やインガソル社も鑿岩機の製造を開始するなど、欧米各国で実用化が加速した。
日本で最初に鑿岩機を使用したのは官営佐渡金山である。明治9年(1876)にインガソル社のロックドリルが採用されたといわれている。
明治15年には、官営阿仁鉱山でシュラム式鑿岩機が使用された。古河市兵衛が阿仁鉱山の払い下げを受けることにより、明治17年末ごろには、この鑿岩機が足尾銅山にも持ち込まれることになる。
手持ち式鑿岩機が開発されたのは明治34年、フロットマン社が最初であり、サンドビック社やインガソル社がそれに続いた。
しかし、外国製の手持ち式は大きいので、日本人の体格に適した小型のものが足尾工作課主任・川原崎道之助によって開発された。外国の機械を改良し、性能を向上させつつ小型化するという日本人の製作風土というものは、この時代にもあったことがわかる。この鑿岩機は、製造されたのが大正3年(1904)であったことから「足尾式3番型」と名づけられた。以後も、「足尾式」なるものの改良は続けられて、現在でも古河の系列会社から世界に向けて製造・販売されている。
足尾銅山は、鑿岩機においても先駆けの地であった。
大正時代、足尾銅山の採掘風景


山に囲まれた足尾内外の輸送に効率の良い鉄索ネットワーク、トロッコ輸送網
電気を用いた電気機関車を最初に走らせたのはドイツ人のシーメンスで、1879年、ベルリンの博覧会場でのことという。
日本では、明治23年、東京・上野で開かれた第3回内国勧業博覧会に藤岡市助によって出品された。藤岡は、米国のJ.G.ブリル社の電車を購入し、創立間もない東京電燈会社の目玉商品として展示したものである。
足尾の間藤水力発電所が稼動するのは明治23年12月で、翌24年には構内電車が走った。その型式は不明だが、おそらくシーメンス社製のものであろう。
明治26年には、足尾銅山工作課製の国産電気機関車が本山事務所から古河橋までの800メートルを軌道610ミリで動き、以後、足尾式電車として製作された。この電車は米国のG.E社製のコピーだったといわれるもの。
坑内の鉱石運搬用にトロリー式電気機関車が動き出すのは、明治30年である。農商務省鉱山局『鉱山発達史』によると、31年には、構内電気鉄道として25馬力電気車3台が足尾銅山にあることが記録されている。ちなみに、東京で電車が運転されるのは明治36年。足尾の10年後で、区間は品川ー新橋間だった。
製錬所構内を走る足尾式電気機関車。明治25年ごろ

通洞抗口のトロリー坑内電車。

足尾のような山の中では幹線道路を建設することが容易ではなく、まして軌道を敷設することがむずかしい地域が多かった。このような地域間の輸送には架空索道(空中ケーブル)に頼らざるを得ず、足尾の人々が「鉄索」と呼ぶ架空索道が縦横にはりめぐらされることになる。
明治23年、日本初の本格的架空索道が、日光・細尾ー足尾・地蔵坂間に米国のハリジーが発明した方式を導入して敷設された。それ以降、ホドソン式・ブライヘルト式など世界を代表する架空索道が採用されて、足尾はあたかも索道の国際見本市のような状況を呈したのである。
こうしたなか、足尾銅山工作課の玉村勇助は、ブライヘルト式を改良して玉村式鉄索を設計し、第10索道(小滝)・第2索道(根利山)を架設した。
彼は最終的には第15索道までつくり、古河退社後は東京玉村工務店を設立して、国内に広く索道を普及させた。
なお、明治から大正まで足尾で稼動した索道は、およそ26地域、全長45キロといわれている。
足尾の架空索道。明治36~38年の撮影。

架空索道用のロープの運搬。鉄索に使われる重いロープは、このように人が背負って運んでいた。隊列を乱さずに険しい山道を行くのは大変な作業だったろう。
(明治末期撮影)

精錬
直利橋製錬所内のベッセマー転炉。ここでは2台が見える。第1号は米国からの輸入だが、2台目からは国産化された。
(明治26年以降撮影)

ベッセマー転炉(製銅炉)を敷設した時の記念写真だろうか。明治26年に第1号が建設され、以後、4台が増設されているが、その増設時のものと思われる。
(明治~大正期撮影)

ベッセマー転炉など、最初は輸入するが、たちまち国産化して活用した。 ベッセマー転炉は、銅精錬の工程でいちばんのカギとなる技術である。足尾銅山には明治26 年(1893 年)日本で初めて導入された。フランスで
製錬を学んだ塩谷門之助を、改めて2年間アメリカに留学させ、帰国後すぐに完成させた。不純物の残る溶けた銅を入れ、円形の炉を回転させながら化学反応を促進する。転炉は工程にかかる時間を革命的に短縮させて生産性を上げた。転炉導入前は32 日間かかった工程がたった2日間になったのである。
ベッセマー転炉は、稼働中の様子から「火吹きだるま」の異名で呼ばれていた。その「火吹きだるま」が設置されていた製錬所は、残念ながら、つい最近完全に解体されてしまった。
2008年撮影の精錬所跡(クリックすると大きくなります


かつて栄華を誇った精錬所は取り壊され、赤く錆び付いた転炉が一基佇み衰勢を物語ってる


跡地に残る転炉(昭和30年代の転炉だろうか?

昭和36年に大型転炉が導入された。
組立の進行を収めた写真(足尾銅山写真帖 新井常雄氏)から
転炉の転炉前は従来オープン型だったが、新型炉で開閉式の扉を付けてた



操業が終わった施設の、原状復帰の義務が鉱業法に定められていることからの措置である。
しかし、産業遺産として保存する道もあったはずである。
もちろん、保存には経費がかかる。他にも問題は山積だ。それでも産業遺産を地上から抹消してしまうのは、この国の文化の底の浅さというべきか、あまりにも情けない。
ともあれ、足尾銅山には多数の「初」技術が導入され、急成長につながった。古河市兵衛がワンマン経営者だったこともプラスした。官僚的な長時間の会議なしに、「よし」と言えばすべてが動く。
背景には、経営者としての迅速な決断と行動があった。
活気に溢れるところには、自然に人材が集まる。
好循環が生まれる。事実、東京帝国大学を筆頭に六大学を卒業した若者が足尾に参集した。外国からの見学者も来るようになった。銅山の盛業ぶりの分かる記念絵葉書が出回った。足尾は湧き返り、飲食街や花街が栄えた。劇場も出来た。流行の先端が山峡の街に珍しくなかった。いま足尾の人口は3,000 人ほどだが、最盛期には4万人以上に達していた。「日本で賑やかなのは、東京、横浜、足尾」との評判も高かった。
渋沢栄一は、古河市兵衛のリーダーシップの下、日本の「殖産興業」がスピーディーに具現化して行く場として、足尾を見ていたのではないだろうか。
影
しかし、足尾の近代化がスピーディーだった陰で、大規模で深刻な環境破壊が足尾地域をはるかに超える規模で拡大した。足尾銅山が「公害の原点」とされる所以である。 まず、足尾銅山周辺の山々の森林の消滅から始まった。
銅鉱石を求めて坑道を掘る。総延長1,200km に及んだという坑道の、落盤を防ぐ支柱として大量の木材を伐採して使用した。製錬に木炭が必要だった。「銅1トンを生産するのに木炭4トン、そのために木100 本が必要」という。機械の動力となる蒸気機関の燃料も薪だった。足尾の町の人口が増えるにつれて、住宅の建設、家具用品の製
造、毎日の煮炊きと暖房用の薪や炭が要る。過剰な伐採のために、緑の山々はたちまち丸裸になった。
そこに追い打ちをかけたのが煙害だった。足尾の鉱石は黄銅鉱である。製錬の時に亜硫酸ガスが排出される。
それが丸裸の山に酸性雨となって降る。おまけに廃煙の中には毒性の強い亜ヒ酸も含まれる。
下草までが枯れ果てた。山火事がそれに加わる。植物の覆いが失われむき出しになった土壌は、雨になるとたちまち洗い流されてしまう。急峻な山地はわずかな期間に岩山へと変貌した。少し強い雨にでもなると、土砂崩れが起きる。大量の岩石が土石流となって流れ落ちるようになった。

鉱石に含まれる銅の純度が1%なら、残る99%が廃石になる。銅の生産量の伸びにともない、廃石(ズリ)は100 倍以上のペースで増加した。鉱脈に達するところまで坑道を掘れば、それも廃石に加わる。足尾銅山では閉山までの360 年余に82万トンの銅を生産した。その数値から推定すると、2億トンの廃石が出たとみられる。廃石は谷間に捨てられ、あるいは積み上げられて山になった。
廃石と鉱滓(カラミ)の捨て場所

足尾を流れ下る渡良瀬川。急流となって南へ向かい関東平野にいたり、東南東に向きを変えて平坦な農業地帯を潤し利根川に合流する。延長ほぼ100km。 台風が襲えば、足尾の廃石、山から崩れた岩石、坑内からの廃水は、渡良瀬川を一気に押し流される。関東平野に出て、流れが緩やかになると沈降して堆積する。川底が上がり濁水が堤防を越える。洪水被害が拡大した。その上、廃石と坑内廃水に含まれる銅などの重金属が「鉱毒」となって、農
作物に壊滅的打撃を与えるようになった。渡良瀬川の漁獲も激減した。

渡良瀬川下流で被害を受けた農民は30 万人にのぼった。国会議員の田中正造をリーダーとして、「農をとるのか、鉱をとるのか」を迫る大規模な公害紛争に発展する。
足尾銅山が生産を優先し、環境破壊に無関心だったのだろうか。
鉱毒事件のために足尾銅山は「公害の原点」という固定化されたイメージがあるが、環境破壊が鉱業の継続を不可能にするという認識がなかったわけではない。燃料に薪を大量に消費する蒸気機関に代えるべく、水力発電をいち早く導入したことなどは、その証拠である。しかし、生産の急増に力を入れたのに比べて対策が遅れたことは間違いない。伐採するばかりで造林を怠った事実、「48km以内で煙害の被害を受けないところはない」と報告された操業の実態、野火対策の不備などが明らかになり、ついに明治30 年(1897 年)、政府は足尾銅山の鉱毒被害を認めることになった。
農商務大臣榎本武揚は、渡良瀬川下流の鉱毒被害地をはじめて視察し、その惨状に言葉を失ったという。
桑は枯れ、稲わらを焼くと青い炎が上がるほどだった。青い色は銅の存在を示す炎色反応である。
化学の知識があった榎本武揚は、鉱毒の深刻さを痛感し、政府は鉱毒調査委員会の設置を決定した。
そして、5月27 日に古河市兵衛に対し37 項目にわたる「鉱毒予防工事の命令書」を発した。
主要な工事は3分野。坑内からの排水を導き中和する沈殿池の建設、廃石・カラミ(製錬廃棄物)・粉鉱の流失防止設備付き堆積場の建設、製錬廃ガスの除去装置の建設。7日以内に工事に着手し、最長150 日以内を期限とし、命令に違背するときは「直チニ鉱業ヲ停止スヘシ」と厳しかった。
本山坑の坑内水処理の施設として、松木川沿いの向間藤(むかいまとう)で建造中の沈殿池。予防工事では、沈殿池・濾過池を、本山・通洞・小滝の各抗口に建設することが命じられた。
(明治30年7月3日撮影)

人海戦術で進められた向間藤における沈殿池の建造風景。沈殿池と濾過池では、坑内水に含まれる銅鉱石類の沈殿除去、硫酸銅・硫酸の中和除去を目的とした。
(明治30年7月8日撮影)

築造中の脱硫塔。
(明治30年8月25日撮影)

銅山は40 日間操業を停止し、工事のために他の鉱山からの応援を呼び寄せ、足尾町民は1戸から1人が手弁当で参加した。5割増の高賃金で人出を集めたがそれでも不足した。1日に多い時は6〜7千人、延べ58 万人が作業し、支払った賃金は合計47 万円に上った。さらに材料として、レンガ312 万丁、セメント1万5千樽、輸送費と
合わせて42 万円、各地から集まった人々の生活物資として、米4,400 石、味噌2,500 貫、醤油150石、
酒1,200 石、草履80 万足、蓑6,500 枚、金額にして15 万円。以上合わせて104 万円に達した。
一方、銅生産の落ち込みによる収入減は40 万円であった。現在の価格に換算すると、1,500 億円近い臨時の出費という。政府の補助金はなく、古河市兵衛を頭とする一企業で賄うには、それまで巨額の利益を上げていたとはいえ、容易ではない。 そこに資金を融資したのは渋沢栄一である。工事は経営上の利益をもたらすものではなかったが、世の中のために必要な投資とした。融資の便宜を図っただけではなく、工事の必要性を説いたところに、渋沢栄一の思想と懐の深さがうかがえる。
工事は予定通り「違背することなく」完成した。だが、予防工事に効果はあったのだろうか。
沈殿池と堆積場は、建設後は一定の効果があったと思われる。とはいえ、すでに下流に運ばれた鉱毒を消し去るものではなく、鉱毒被害が軽減されたわけではなかった。洪水のたびに被害が広がった。
洪水対策名目の公共事業によって、明治40 年(1907 年)、利根川合流点に近い谷中村は、田中正造らの抵抗もむなしく、鉱毒もろとも遊水地の底に沈むことになり、滅亡した。
最も効果のなかったのが、技術的に未知のままに建設を強行した脱硫塔である。排煙の中から硫黄を除く脱硫の技術そのものが、世界のどこにもまだ存在していなかった。
それでも硫酸製造技術を応用して、亜硫酸ガスの除去を試みた。製錬所の数ある炉からの廃煙をすべてレンガ造りの総延長566m の煙道に集める。それで廃煙を山腹の脱硫塔へ導き、石灰乳剤のシャワーで洗う。廃煙中の亜硫酸ガスが石灰と反応して炭酸カルシウムになるはずで、それで脱硫ができればいい。最終的には、廃煙は山の上の
大煙突から放出する……。しかし、期待は裏切られ、脱硫効果はほとんど皆無に等しかった。多少の効果はあっても、生産の伸びが効果を上回った。
山上の大煙突からの廃煙は風に運ばれ渡良瀬川上流の松木村方面に流れるようになった。そのため、松木村の樹木、草木が枯死し、茫々たる赤土の原と化した。養蚕と山野の恵みで豊かな村だったのが一変、村人は生業を失い、先祖からの土地を捨てざるを得なくなった。ついに明治34年(1901年)、残っていた25 戸が示談金4万円を受け取って村を去り、翌年廃村になった。
こうして、渡良瀬川の上流と下流で、二つの村が滅亡したのだった。
渋沢栄一は「義利両全」を唱えた。青淵という雅号で、多数の書にも遺している。
企業の活動は、利益と正義(倫理)の両方が実現されるべきという意味である。
「道徳経済合一」の考えを、意気投合した陽明学者三島中洲の「義利合一説」を聞き、発展させて「義利両全」という言葉に集約したという。渋沢栄一が晩年に財界の大御所として、また教育者としても尊敬を集めていたのは、その思想の重さにあると言ってよい。
日本の資本主義の基盤を築いた実業家であったが、渋沢栄一の目標とした資本主義は、利益を追求するだけではなかったといえる。
1991 年は東西冷戦が終結した年である。アメリカの資本主義が社会主義に勝利したわけではなく、ソ連の官僚主義が勝手に瓦解したというのが実情に近い。
ソ連の内部崩壊を告げる事故が起きている。
1986 年のチェルノブイリ原発事故である。自動車が安全に走るためには、自動車に欠陥がないこと、道路設備が整っていること、運転手が安全運転するなど、要するに機械の性能、システム・制度、人間の三要素が揃っていなければならない。三要素は原発にも共通に言えることであるが、チェルノブイリ事故で明らかになったのは、そのどれもがソ連国内でまともに機能していないという実態であった。ソ連の自壊の程度が全世界に暴露された事故だったのだ。
しかし、なぜか東西冷戦の終結は、アメリカの勝利、アメリカ型資本主義の勝利と受け止められた。規制緩和と競争、できるだけ市場に任せるという新自由主義経済が、グローバル・スタンダードということになり、日本では「小泉・竹中改革」で頂点に達する。それは、渋沢栄一の「義利両全」、の対極にある弱肉強食資本主義といってよいだろう。そしていま、経済格差が社会不安をもたらし、破綻したマネーゲームの結末に、日本だけではなく全世界が病んでいる。
400 年の教訓
フランスで「殖産興業」の理論を学んだ渋沢栄一は、足尾銅山を「殖産興業」を先導するシンボルとして、古河市兵衛に協力を惜しまなかった。
頭の中に描いた「殖産興業」が具現化されて行くことに、きっとよろこびを感じていただろう。
しかし、「光」とともに「影」が生じる。足尾銅山の成功という「光」が輝かしかっただけに、環境破壊、それに連なる人間への健康被害、農村共同体の崩壊という惨禍の「影」は、一層深いものであった。
足尾銅山の「利(益)」が上がれば上がるほど「(正)義」を欠いてしまう。その現実に、渋沢栄一は戸惑い、そして思いをはせたに違いない。
「利」を求めるのは良い、しかし暴走してはならない。真の「殖産興業」は「利」のみを追求するものであってはならない。「義利両全」は、渋沢栄一が足尾銅山の現実を直視し、熟慮を重ねた上ではっきりと確認した資本主義の在り方に関する結論なのではないだろうか。
それはまた、足尾銅山開山400 年の現代に遺された貴重な教訓だろう。