スバル軽CAR ステラ カスタムRS(AWD)納車・・・そして

  • 2010/02/27 15:02
  • Category: 日記
2005年10月に発表された トヨタ自動車と富士重工業との業務提携。
その後、2008年4月には、トヨタ自動車が富士重工業の筆頭株主となり、同時に業務提携の拡大プランが示された。
そのひとつが、富士重工業における軽自動車の自社開発と自社生産からの撤退。

この親父が住む群馬県太田市は富士重工業(スバル)の御膝元。仕事に関しても若造の頃から大変お世話になってる

富士重工業(スバル)は、かつての航空機メーカーの中島飛行機が前身

女房が乗る軽CAR「プレオ」がステラ カスタムRS(AWD)に
スバル軽CARはダイハツやスズキから比べると生産台数は少なく人気も・・・少ない。
仕事上地元メーカーの富士重工業にはお世話になる事もしばしば
現状を聞くと今の情況では軽CARが売れる程赤字になると結論付けてるスバルだが
その品質管理は普通自動車に限らず軽CARに於いても他社に負けない管理としてる
例えば開発室に於いてはその車に対して実際距離を走り統計を取り今尚続いてると聞く

他社から比べて小さな車体独創的なR1やR2の受注が来月3月14日に終わり
軽CARの完全撤退は2012年には完了する。

10年程世話になったプレオ
既に10万キロを超えたプレオ その質だろうか独断と偏見をもった親父が思うに・・・
まだまだ現役で走れる性能を持ってる。エンジンにして唯一4気筒エンジンは元気にCVTも健在で部品交換や修理は今まで無かった。仕事上の付き合い縛りが有り(紹介販売)名目で新車に替えることになるプレオ (苦笑
車検も1年位残ってる・・・・・  
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早速昨日雨天の納車。ステラ カスタムRS(AWD)を取りに行く。
本来納車をして貰う訳だが9000円のキャッシュバックを目当てにディーラーへ (笑

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エンジン/トランスミッション 660cc4気筒DOHCスーパーチャージャー i-CVT(AWD)

さて、女房の為に(?)最高ラインアップを選んだ訳だが・・・メーカー希望小売価格が\1610700となる
日産のマーチやトヨタのVitzのコンパクトカー上級機種と変わらぬ価格だ。その訳はやはり生産コストに因るものだろうか?

まだ、数キロ試乗の為詳しいコメントは出来ないが、後日乗ってみようと思う。


ステラが納車され気になる富士重工の筆頭株主トヨタの行方・・・・


アメリカトヨタリコール問題はモンロー主義の台頭?

ジェームズ・モンローは1816年の選挙で大統領に選出され、1820年に再選されて2期8年間大統領職を務めた。
アメリカの孤立主義政策を象徴するモンロー主義を掲げたことでよく知られている。1823年12月2日、議会における教書演説で、
南北アメリカは将来ヨーロッパ諸国に植民地化されず、主権国家としてヨーロッパの干渉があるべからざることを宣言した。
当時、ラテンアメリカ各地で独立運動が高揚しており、これに対するヨーロッパのウィーン体制諸国の干渉を牽制する意図もあった。
さらに、より現実的な脅威として、当時はアラスカがロシア領であり、これ以上のロシアの南下政策を懸念するという状況もあった。

当時の対象がラテンアメリカ対して、今の世界でアメリカの「囲い主義戦略」は何んであるのか?
◎アメリカ国内の実産業
◎知的財産
◎石油
◎ドル覇権
これらに対する阻害要因があるとしたら、それらを経済政策や軍事力による圧力でも使って、
除去することを考えるのは、国益からみたら至極当然の選択であろう。

最近アメリカ国内自動車販売台数の推移はGM、フォード、クライスラーという、
アメリカビッグ3を向こうに回して、しかも相手のホームで、トヨタ、ホンダがしっかりと食い込んでいる。
「◎アメリカ国内の実産業」の根底概念から多少荒っぽい手を使ってでも、日本製の車を、売らせないか買わせないかするしかない
日本車を全面輸入禁止にするとか、関税をうんとかけたりするのは、自由貿易の完全否定であり、
他国からの相当な反発も予想される。それよりは、なんだかんだとイチャモンをつけては、イメージを落として、
消費者の「自発的な選択」によって買わせなくさせるほうが、まだ角が立たない。

たとえば、この日本車には重大な欠陥がある、とかなんとか言って、購入を躊躇させる等ではないか?

しかし、重要な事を忘れてはならない
例えば日本自動車メーカーの「トヨタ、日産、ホンダ」は既に日本国内における生産輸出体制を脱却し
アメリカ国内生産に殆どがシフトしてる
アメリカ在住の方やビジネスで渡米される方はアメリカで走る日本車を見れば一目瞭然と言える
この私もアメリカの自動車部品工場に仕事で何回か渡米し、現実を見てる
トヨタが米国で17万2000人の雇用を生み出している事も事実で部品に関しても「メイド・イン・アメリカ」の事実

そのアメリカ世界戦略の基本が為にアメリカ生産「日本車」に矛先が向けられ
「リコール」問題に発展するのは、「訴訟社会」というアメリカの土壌があるように思える。

リコールの発端
運的席のフロアマットをサイズの合わない別車種のものに交換し
マットがはさまりペダルが踏めない現象が起こってしまった。
乗っていたMark Saylorさん(45)と妻Cleofeさん(45)。さらに娘のMahalaさん(13)と
義理の兄弟であるChris Lastrellaさん(38)の4人全員が、亡くなってしまう(冥福をお祈りします)

8月28日、トヨタ「レクサス」がカリフォルニア州サンディエゴで時速約190キロで壁に激突、
大破し、激突する寸前まで911と電話でのやり取りを行っていたことを大きく報道された

その結果だけを大きく報道する事により感情的にどんな反応を起こすだろうか?

■Santee Car Crash 911 Call(実際の電話でのやりとり)


日本で言う「製造物責任法」がそれにあたるが、そもそも使う立場も責任が生じる事も忘れてはならない
機械物であるが故、絶対的でないことが大前提であろう

先のフロアマット事故にしても命を守る為、機転を利かせば何故ニュートラルにギアを入れなかったか等、
様々な「れば、たら」が考えられる。

最初は2009年11月に発覚した、
フロアマットによりアクセルペダルが引っ掛かったまま解除できなくなるおそれがあるという
「フロアマット問題」から
2010年2月の、アクセルペダル内部のフリクションレバー部が磨耗した状態で結露すると、
最悪の場合アクセルペダルがゆっくり戻る、または戻らないという「アクセルペダル問題」。
そして最近報道された、プリウスのブレーキが利かないという「ブレーキ問題」。

どれも、アクセルとかブレーキとかに関するものだから、致命的欠陥であることは否定しようがない。
今やトヨタ車がリコールする台数は世界で818万台にのぼり、2009年度におけるトヨタの新車販売台数781万台を超えることが確実視されている。

更に追い討ちをかけるように、アメリカ運輸省のラフッド長官が2月3日に、トヨタのリコール車の保有者に向けて「運転をやめるべきだ」と発言している。
長官はその後、発言を撤回したけれど、発言は米主要メディアで一斉に速報されて「対象車は運転できないほど危険」との印象が広がっている。
このラフード運輸長官の対応について、オバマ大統領は「非常に満足」とコメントし
この手の失言は、一旦広まってしまったら、あとで撤回したところで、その悪いイメージはなかなか払拭できない類のものだから、
ラフッド長官の発言はかなり尾を引くだろう。もちろんトヨタ車のイメージダウンは避けられない。

アメリカでトヨタの車がバンバン売れて、市場シェアを奪ってしまうことが、アメリカの自動車産業を囲い込む「阻害要因」と位置づけるなら、
今回のトヨタの大規模リコール問題なんかは、正にイメージダウンによる外国製品の排除に当たる。

そこに何らかの意図があったかどうかは分からないが、結果としてそうなってしまってる。
今後冷静に行く末を見守る事が肝要でないだろうか。

最後にこの件に関して思うと頭を過ぎる
戦後半世紀以上過ぎ東京裁判を指揮した当のマッカーサーが「東京裁判は誤りだった」と発言している事が
様々な観点からラップしてしまう・・・・親父である

久々のHS1で落とし物

今日も天気が良く暖かな一日で
これから一雨づつ暖かくなると思うと春が待ちどうしい

荷物が無い車の移動は勿体無い暖かさ。往復40キロ前後なのでHS1で出発

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目的地に着きHS1に目をやるとポイントカバーが外れてる
途中落としてしまったのだ。
帰り道、探しながら帰ったが見つからず・・・・諦め。

帰ってから部品取り車からカバーを外しHS1に移植
しっかりネジを締めたつもりでもカバーが脱落してしまった
HS1のカバー類にはスプリングワッシャーがついて無い事も原因だろう
早速ネジロックを注文し後日カバー類のネジはネジロックを施しよう

部品取り車
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とりあえず元に戻ったが悔しい・・・・仕方ない。。

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機会が有れば暖かな日にHS1でローカルな一般道で少し遠乗りをしてみたい
旧い小排気量のツーストはまた違ったバイクの楽しみを与えてくれる

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暖かさに誘われR1200RT

最近は根性が無くなりバイク通勤が少なくなった。暖かくなり始め、そろそろバイク通勤復活か・・・・?
事務所で寂しく待つスーパーシェルパ(来週から通勤バイク復活なるか?)

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暖かい日和となり午後から仕事をキャンセルして・・・・またもやR1200RTで出動
火曜ですが・・・半ドン(はんどん)とは、午前中に業務・授業が終了し午後が休みの早期終業のことを指す日本での俗称。
↑最近は学校も土曜日が休みとなり懐かしい言葉。
帰宅しR1200RTを引っ張り出し出発!!既に時刻は2時をまわるが・・・・

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後から気づいたが平日で高速道路割引は無い・・・・
東北自動車道佐野藤岡IC⇒北関東自動車へ
平日の北関東自動車道は空いててクルーズコントロール(130kmセット)で走る
このまま水戸大洗ICまで行き海岸線に沿って国道51号線を南下し東関東自動車道で都心へ向う事を考えるが・・・・
北関東自動車道⇒常磐自動車道へ
常磐に入り直ぐ友部SAで休憩
そこにはスズキGSXRに乗った青年が居て暫くバイク談義。

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すでに4時が過ぎ挨拶を交わし先に高速道路へ
千葉県に入り・・・再び親父脳内は(海ぼたる)経由を考える
少し気温が下がったのだろうか?冷え込みを予想し首都高速で帰路を選ぶ
常盤自動車道⇒首都高速
首都高速6号線で小菅Jctへ
都内に入ると渋滞に・・・北関東自動車道と比べるとまったく雲泥の差。
すり抜けをし首都高から東北道へ
首都高速⇒東北自動車道
東北自動車道羽生PAにて日が沈んでも暖かい。気温は13度だ

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自宅はもう近い佐野藤岡ICで降り国道50号で
帰宅ラッシュで国道も混んでた。田舎でも渋滞し・・・改めて昔の空いてた国道を思い出す
そう、この親父は今自分の息子と同じ年代の頃を思い出してた。もうあれから何十年も経った今は誰もが車に乗る。

無事7時前に帰宅。

走行距離
出発時に満タンにし296.8kmを走った残り215kmまだ走れる
(ロングツーリングが可能なバイクだ丁寧に走れば500kmも可能?)
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燃費は20.8km/L 平均速度78.3km/h

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暖かな一日だった

R1200RT ライトバルブ交換

日曜午後。少し暖かかったのでR1200RTで乗り出す
暖かと言えどもまだ山間部のワイディングは無理だろう
諦め東北自動車道佐野藤岡IC⇒北関東自動車⇒常磐自動車道⇒東京外環⇒関越自動車松山IC
(群馬→栃木→茨城→東京→埼玉→群馬)296.7kmを走った

帰路途中メーター表示にランプ切れ警告が表示されるが片目走行でも十分に明るい

バイク用品店で丁度PIAA製H7(2個入りセット)2割引きで5600円!最後の一個を購入
通常販売一個当たり5000円相当だったので買い得と言える。


R1200RTはカウルを外さないと交換が出来ない・・・・
カウル取外しの大まかな順序は

 タンク上部のキャリア(ビス4箇所)

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 左フロントアウターカウル(ビス4箇所&アクセサリー電源用カプラー外し)
 右フロントアウターカウル(ビス4箇所)

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 スクリーン(表ビス4箇所、スクリーン自体にビス2箇所)

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 左右ミラー(後方に引っ張れば簡単に取れる)→ メーター周りのカバー(ビス4箇所)  

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ここまで外せばバルブを交換できる
 スピーカーとメーターの下から覗くとバルブのカバーが見えるのでそれを外す

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新品のバルブと外したバルブ
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逆の作業でカウル等を組み付ける 


明るくなった

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純正バルブ使用で十分に明るかったが今回は更に明るい色温度:4500K(ケルビン)


今までR1200RTに乗ってると

夜の高速道路で追い越した車数台からパッシングされる事がある(街中の対向車もたまにある)
車の後ろに停車した時も、眩しがられてる時もしばしば・・・・
ある時は前を走っていた乗用車等が車体をゆすって嫌がらせをする事も
「1200RTの光軸は上向きじゃないか?」とよく言われる。
確かに車検の光軸検査には合格しているのだが・・・・

調べてみたが、「上向き角度を重視する」日本の車検制度では、
現在の1200RTのライトは少し上向きになるようで
確かに後ろからライトを上向きにされて、追い越されれば「なんじゃこいつは!」と
ヒンシュクを買うかも知れない。

1200RTにはカウル内側(パネルの下)に照射角度を微調整するレバーがついてるので
もし自分で「上向き」が気になる方は調整して下さい。


逆を言えば安全かも・・・・・

FJR1300&R1200RT (オイル交換&ショートツー)

一昨年の11月FJR1300AからR1200RTに乗り替え1年が過ぎた。
FJRは2006年式でこの年から現在新型FJRは排ガス規制とカラーリングの変更のみだろう
久々にFJRに乗りR1200RTから比べると流石にその力強さや加速は驚くものがある。
R1200RT(110ps)FJR1300A(143.5ps)の差が分かる。FJRは長距離ツアラーとして十分その性能を持ってる。

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R1200RTも18000kmを走り感じた事はツアラーの最高峰と言える
出力こそはFJRに劣るもの高速長距離移動に限らず、ワイディングも思う以上に楽しく走れる
ボクサーツインの低重心とパラレバー&テレレバーの性能は実に素晴らしい

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FJR1300は走行距離37000kmと走り至って快調だが既にオイル交換から7000km走ってる。
R1200RTも走行距離18300km既に交換から5000km走行。FJRとRTのオイル交換を

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FJRはオイル交換とフィルター交換。作業するT氏
参考にオイルは4㍑
ドレンパッキンを替えドレンボルトの締め付けトルクは43N・m
オイルフィルター14N・m

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続いてRT
前回フィルターは交換済でオイルのみ
オイルは4㍑
ドレンパッキンを替えドレンボルトの締め付けトルクは33N・m

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使用オイルはケンドルGT-1(20W-50W)鉱物性ベースオイルはパラフィンリッチタイプ
両車とも5000km以上の走行にも関わらず廃油にはまだ粘度がしっかり残ってる
まだ交換は勿体無いかな・・・と思うほど。
ドレンボルトからオイルを抜く時、科学合成オイル3000km以上使用の場合ドレンから落ちるバシャ!と流れ落ちる雰囲気は無く
ケンドルは静かにスーっと粘度質が残っている落ち方をする。
使用感も非常に良く科学合成から比べるとエンジンのトルク感や静粛性能もまるで違う
軽自動車に使用すると顕著にその違いが分かる
エンジンオイルに関しては論より証拠である是非お試しあれ!
公式HPhttp://www.kendall.jp/index.htmlケンドルは普通乗用車でノーマルコンディション16000kmまたは1年/シビアコンディション10000kmまたは1年を推奨してる

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午後3時を過ぎ暖かい日と言えども日が落ちれば寒い・・・それでも出かけてしまう元気親父ども。。

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やはり寒かった。
この日光方面に行くにはもう少し春を待たねばならないだろう






軍刀(昭和刀)から思いを馳せ

軍刀『ウィキペディア(Wikipedia)』の画像より

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美術品として価値は低いと思うが・・・近年の歴史を物語る軍刀(九八式軍刀)

この軍刀は戦後何十年も

その時代を忘れようと眠ってた。

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錆びて無残な姿であろうと思い・・・・軍刀独自の鉄の鞘から刀を抜くと真剣は見事に光を帯てその眠った時間から抜け出した
軍刀の特徴として少し短めな二尺二寸の刃渡り

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波紋も綺麗に現れ、その湾曲した刃は薄い一枚のコピー用紙を見事二つ音もなく分けていった

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柄には・・・・・そして鍔にも

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この日本刀を見て恐ろしく思う人や
ある意味違った所でその当時の戦争に対する嫌悪感や様々な思いが浮かぶだろう。

この親父は中学時代に歴史の授業を教わった、当時勉強嫌いだったにも関わらず
近代歴史(日清戦争、日露戦争~太平洋戦争「大東亜戦争」そして連合軍の日本占領)と習い
その中で日本は悪かったと単純に思って何故かその日本に対する嫌悪感が少しでも有ったに違いない


改めて三十数年過ぎ末娘(中2)の歴史教科書の近代歴史を読むと愕然とする思いであった
日清戦争、日露戦争~太平洋戦争「大東亜戦争」そして連合軍の日本占領まで
原因と背景をもっぱら自国内にのみ探ろうとする傾向が著しく
明治以降の日本の歩みを「侵略と他民族への犯罪」と意識せざるを得ない
教育やジャーナリズムの状況の中にどっぷりと浸かり洗脳されていたと思う。
決してこの親父(俺)は左派や右派では無い

戦後半世紀以上が過ぎその真実を公平に見極める事が大事ではなかろうか?

靖国問題、教科書問題を巡る近隣アジア諸国との摩擦、さらには近年の日本におけるモラル低下による犯罪の増加、
これらのルーツを探っていくと東京裁判(極東国際軍事裁判)に行き着く。
日本人並びに世界に向かって、日本は犯罪行為を犯した悪者であると喧伝され、日本人の心に深く罪悪感と劣等感を刻み込む事になったのであり、
近隣諸国には侵略国日本に対する「謝罪と賠償」という外交カードを与えることになった。

東京裁判の、文明を踏みにじるような野蛮な復讐行為の是非は、白人諸国においても大いに議論の的になったという。事後法の作成、法の遡及、
有りもしない「共同謀議による戦争犯罪」のでっち上げ、敗戦国のみを裁くという片手落ち、などなど呆れるばかりである。
東京裁判の結果を後生大事に押し頂き、未だにA級戦犯がどうのこうのと真人目になって言っているのは日本人とその隣人だけである。
東京裁判を指揮した当のマッカーサーが「東京裁判は誤りだった」と発言しているのだ。

占領軍のくびきを捨て、正しい歴史認識を持ち、日本国に誇りを持てるような教育が成されなければならない。
日本にプライドを持てないような若者が国のために何かをしてくれるだろうか。国の法律を尊守するだろうか?
隣人と手を携えて平和な社会を築けるだろうか?

東京裁判判事の一人ラダビノード・パール(唯一無罪を述べた)判事は言う。
「まともで教育のある人々がなぜパールハーバーを攻撃する道を選んだのか。これを理解せずに、ただ非難する人がいる。彼らこそが戦争をもっとも起こしやすい人々なのだ」と。

敗れた国を建て直すには甚大な努力が必要となる。例えば国家や家族の生命を守る為に命を賭して闘った方々が、今は侵略者と言われている。
本当に彼らは侵略者だったのか?本当に侵略の為に命は張れるのか?真剣に考えねばならない。彼らは何の為、あそこまで激しく戦い抜いたのだったかと。
東京裁判が結論のみで、理由も証拠もない裁判だった事を明らかにされたのがパール判事である。
また、開戦を決断した日本という国家に義すらあったことを説かれている。

これはすべての日本人にとってとても重要な事だと思う。戦後の日本人が自国の歴史について考える時、国策としての過ちがいくつかあったことは間違いないが
東京裁判で裁かれた満州事変から終戦に至る日本の歩みは決してこのような形で裁かれるべきではなかったと。
歴史有る道徳中心教育も今はGHQにより消されたが・・・・・・

あの軍刀が残ってたように日本古来の道徳教育を残すべきではなかろうか?
武士道や大和魂を

教育勅語抜粋訳
  【天皇の歴史観】
 私、天皇が振り返って考えてみるに、神武天皇の建国は大変な偉業であり、歴代の天皇は道徳の確立に励まれていた。
 また国民も公的には忠義であり、私的には孝行であった。そんな皆が、心を合わせて美しい日本の姿をつくってきたのは、
 我が国の最も素晴らしい所である。教育というものも、この部分に由来しているのだ。
  【国民への命令】
 国民達よ。父母を大切にし、兄弟や夫婦と仲良くせよ。友人とは信頼を持って付き合え。自分を謙虚にして、人々とは博愛の心で付き合え。
 学問を習い、技術を身に付けよ。知識を深め、そして道徳を高めるだけでなく、一歩進んで、世の中の役に立ち、世界で活躍するのだ。
 道徳や法律を尊重し、大事が起これば迷う事なく公の為に働け。
 そのようにして、天地の続く限り、永遠に繁栄する日本国をつくってゆくのだ。以上の事を実行する者は、立派な国民となるだけではなく、
 御先祖様が立派であったことをも証明できるのだ。 
 【結びの言葉】
 以上の言葉は、歴代天皇が教え伝えてきた命令である。
 私やその子孫である天皇も国民も、区別なくこれを守らなければならない。
 この教えは、どんな時代に当てはめても間違っておらず、どんな国に見られても恥ずかしくなく、立派な教えである。
 私も国民も常に心掛けて、同じように立派になるよう、切に希望する。


VTR250禁じられた22900kmを振り返り(高校生バイク三ない運動)

2007年夏休みも終わる頃に自動二輪中型免許を取得した
その息子も今年高校を卒業し大学生に。高校在学中VTR250で走破した距離は22900kmに及んだ

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教育委員会の三ない運動決議案に於いて今も多数の高校ではその運動が成され
例外なく息子の通う高校もバイク禁止。その呪縛から卒業により解き放たれようとしてる
今後下の娘達が自らバイクに乗りたい意思を示さなければ、高校生とバイクに関する記事は遠ざかるであろう

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高校側(我が母校)との対立

息子の在学する学校は親父の母校である既に親父の時代(1970年代)とは明らかに違う教育方針だった

1974年バイクはその性能が上がり交通法規もそれに順応せず10代のバイク死亡事故も増え始めた
ノーヘルでも違反にはならず後にヘルメット着用義務と限定解除(大型二輪)の枠組みが出来る
当時自動二輪に乗る10代の若者は多くその事故防止の為、地元警察と協力し学校内まで自己所有のバイクを
持ち込み交通安全教育を実施した覚えがある

おそらく、息子は免許取得し嬉しかったのだろう
級友に免許取得を話しその話が広がり、ついに親父の所に担任の教諭から電話が入り事実の確認。
嘘を通し息子を言いくるめるのも手だが・・・そうはいかない
真実を明らかにし、毅然としなければならぬ考えが過ぎった
息子の懲戒は喫煙や恐喝等より重い謹慎2週間(停学では無い停学処分は法律に反する為)
この時から対立が始まる

法律で定められた権利を剥奪する事は許されるだろうか?前ログに書いてあるので割愛。

http://kasehikaru.blog121.fc2.com/blog-entry-216.html

このバイクと高校生に関して書く度に様々なコメントを貰ってる
それぞれ立場や考え方によりこの問題は多様し反対論者の方も多いと思う
 戦後日本の教育は知識の教育が優先され、その道徳教育が疎かになり本来の教育が無い事が原因ではなかろうか?
高校の3年間事なかれ主義で生徒を指導する体制。真実は何処に有るか教えられない
そして親の責任と認識せず学校側へ責任転嫁する親達 間違った個人主義が多い。
決してこの親父も完璧ではない、しかしなにが真実なのか見極める事が大事でなかろうか。


謹慎後親父と妹でツーリングクラブの人達とFJR&VTRで(学校で丸刈りにされた息子)

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初めて親父から離れ一人ツーリングへ

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やがて、一人参加でツーリングクラブ宿泊ツーリングへ

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そして雨の日も一人で

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大人達に飛び込み走った道のり

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三ない運動と対立しながら走った距離

22900km

その距離は彼に何を残すだろう?

今月で息子はその呪縛から解放される


ライダーである親達へ
恐れる事は無い責任と勇気が有れば子供達と旅に出かけられる!


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自由と責任において、今後さらなる距離を重ねVTR250と共に安全に走り抜ける事だろう。

BMWボクサーツインDOHC

2月14日前日の遅くまでの雨で朝は路面が凍って、
ECHOツーリングクラブの焼津魚センター日本平と三保の松原ツーリングも路面凍結が予想され伊豆方面へ変更・・・・
北関東から参加の早朝出発は凍結の為無理なので断念。
午後路面も乾き買い物&BMWディラー回りのショートツーリングに出かけることに
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早く暖かくなる事を祈らんばかりのこの頃。

ディラーのショールームへ行くと有りました!ボクサーツインDOHCのGS。
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試乗車も!

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R1200RTに関して公式HPによると

現行SOHCカムチェーン駆動4バルブ
最高出力 81kW(110ps)/7,500rpm 
最大トルク 116Nm/6,000rpm

新型ボクサーDOHCカムチェーン駆動4バルブ
最高出力 81kW(110ps)/7,750rpm 
最大トルク 120Nm/6,000rpm

と出力に関しては同じだがトルクが若干上がった
GSから様子を窺うと低速トルクは若干上がってるように思われる

最終SOHCからDOHCの新型になり
スポーツタイプニューHP2 Sport
最高出力 98kW(133ps)/8,750rpm
最大トルク 115Nm/6,000rpm
は大幅にエンジンと共に出力も変わってる

しかし、ツアラー(RT)やエンデュロー(GS)に対して出力等に於いて大幅に変更が有った訳ではないが
新しいDOHCユニットにおける乗りやすさを含め今後のリビジョンに大きく期待したい


コラム

実は、BMWは1970年後半に「モーターサイクル生産を継続するかどうか」の決断を迫られている。空冷ボクサーの需要が年々下がり、業績が悪化していたのだ。その影にあったのが、日本車の存在と将来確実に厳しくなるだろう「規制」。BMWは、1960年代まで英国車の「トライアンフ」や「BSA」などとビッグバイクの主要マーケットであったアメリカで大きなシェアを誇っていた。しかし70年代に入り、日本からホンダの名車「CB750フォア」やカワサキ「Z1」が登場し、状況は一変した。その圧倒的な性能と、低価格はBMWをはじめ「トライアンフ」や「BSA」との差を決定的なものとし、みるみる業績を悪化させていく。結局、3気筒などのエンジンで対抗しようとした「トライアンフ」や「BSA」は日本の技術力に屈し、瞬く間に倒産に追い込まれてしまった。

もともと乗用車メーカーとしての母体があり、創業事業がモーターサイクルであったことから、モーターサイクル事業を継続していたBMWだが、日本勢の多気筒化、DOHC、水冷化によりボクサーとの差は開く一方であった。BMWも「ボクサーでは、到底日本車には勝てない」と判断していた。それでも、モーターサイクルは原点であったことを重視したBMWは継続を決断するが、年々厳しくなっていく規制を鑑みれば、ボクサーでは満足するものが作れない。ならばまったく新しいエンジン、つまり「空冷ボクサー」とは異なる「水冷DOHC4気筒(Kシリーズ)」の生産を決める。もちろん、日本勢のモノマネではなくBMW哲学を貫く。つまり、ボクサー同様にミッションから駆動系までを一体成型する。そう、水冷版のコンパクトドライブを目指したのである。

この革新という言葉を詰め込んだようなエンジンとともに、ボクサーエンジンは消えていくはずだった。ところが、その予測は完全に覆されるのである。なんと、この最新エンジンKシリーズが発売されても、ボクサーは相変わらず売れていたのだ。当初は、なくなるかもしれないボクサーを惜しんだファンが殺到しているのだろうと思われていた、いつまでも売上は落ちない。BMW社がファイナルモデル宣言をすると、バッグオーダーが殺到。しかたなく延命措置をとるも、ファイナルモデルの発表をするたびにバックオーダーがたまるという状況が続く。ユーザーはすでに性能だけでモーターサイクルを選ばなくなっている。BMWはそう判断し、それならば、とボクサーエンジンを改めて改良、新型ボクサーとして新ためてデビューさせたのである。

私たちが今、乗っているボクサー。決して性能を重視したわけではない。しかし、ボクサーエンジンの原点ともいえる「パワーだけを求めず、総合的な性能を追及する」という原点、哲学が貫かれ、そしてそれはライダーに評価されて80年以上を生き抜いてきている。BMWのエンジニアたちの情熱と、ファンの愛情に囲まれたボクサーエンジンを改めて見てみてはどうだろうか


この親父は1970年代(16歳)からバイクに乗りマルチ崇拝者(つい最近まで)だった
しかしボクサーエンジンに乗りその低重心や長距離性能にボクサーに魅了されてしまう
決して日本車から比べればその出力こそは落ちるもの1000km先に到達する速度は実に速い
(R1200RTに乗り始め1年3カ月で18000kmを超える)

今後のボクサーDOHCユニットに期待をする。

国境を越えた恋そして・・・・・

ロシア金貨の日本人の名は看護婦? 国境越えた恋か 愛媛

2010.2.10 02:17 
 松山城二之丸跡で出土したロシア金貨の裏面にあったロシア人青年将校と日本人名とみられる文字の調査について、松山市は9日、金貨に刻まれた日本人名が「竹場ナヲ」という看護婦だった可能性が高いと発表した。

 当初、金貨に刻まれた2人の人物名を「タチバナカ」「コステンコミハイル」と判読したが、「タチバナ」の「チ」を「ケ」と読み替えることが妥当と判断した。

 市によると日露戦争当時、松山には捕虜収容所があり、二之丸跡の陸軍病院では捕虜の医療が行われいた。当時の新聞には竹場さんが看護婦として勤務したことを示す記録が残っている。また、新聞には竹場さんを「竹場ナカ」と記載した記事もあり、金貨の文字と竹場さんの関連が深いとみている。

 竹場さんについて詳細は不明だが、中村時広市長は「国を越え、許されない恋があったのでは」と思いを巡らせていた。

 金貨は明治32年製、直径2センチの10ルーブル金貨で、表面にロシア皇帝ニコライ2世の肖像が描かれている。昭和60年の市の調査で出土し、今年1月に人物名の存在が確認された。   産経ニュースより
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敵国の関係・・・それでも恋は芽生える。なんとも言えぬロマンを感じます

「戦争」はやるべきでないですね

日露戦争は1904年(明治37年)に没発した大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満州南部を主戦場として発生した戦争であるが、戦争の決着をつけたのは日本海戦であった。
ロシアのバルチック艦隊と日本軍連合艦隊が日本海において激突した。日本軍連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の指導のもと歴史的大勝利を収めた。
さて、この日本海戦でロシア側は壊滅的打撃を受けるのだが、戦死者は4545人、捕虜は6106人でこの日本軍に捕虜となったロシア軍人が日本でどんな扱いを受けたか?

日本各地に捕虜収容所があったのだが、松山にあった収容所を例に取ると、食事は日本の軍人よりいいものが与えられ、彼らの嗜好に合うようパン、バター、紅茶や肉類が出された。最初は満足していた捕虜が、食事をまずいといい出すと西洋料理のコックの指導を仰いで料理が提供された。中には収容所の食事に満足できず個人でコックを雇い入れて料理を楽しむセレッキー予備海軍中佐のような輩もいた。

さらに、収容所側では、将校には50円、下士官には15円のお小遣いを支給していた。
さらに、さらに、捕虜の外出は自由で、海水浴をするため列車の定期券を買いこんで連日出かけるものも多数いた。また、彼らは冬場には道後温泉に競うように通った。

■ハーバート・G・ポンティング=イギリス人。1910年(明治43年)にスコット大佐の第二次南極探検隊に加わり記録写真を撮った写真家。1901年(明治34年)~1902年(明治35年)来日。日露戦争にも従軍。

「英国人写真家の見た明治日本」より

 プラットホームに立っていると、そこにロシア軍の捕虜を満載した列車が到着した。乗っていた捕虜の全員が戦争から開放された喜びで、大声で叫んだり歌を歌ったりしていた。・・・反対の方向から別の列車が入って来た。それは日本の兵士を満載した列車で、兵士達は前線に行く喜びで同じように歌を歌っていた。

 ロシア兵と日本兵はお互いの姿を見るや否や、どの窓からも五、六人が頭を突き出して、皆で歓呼の声を上げた。ロシア兵も日本兵と同じように懸命に万歳を叫んだ。列車が止まると日本兵は列車から飛び出して、不運?な捕虜のところへ駆け寄り、煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、その頬にキスしようとする者さえいた。私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった。

(中略)松山で、ロシア兵(捕虜)たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。寝たきりの患者が可愛らしい守護天使の動作の一つ一つを目で追うその様子は、明瞭で単純な事実を物語っていた。

 何人かの勇士が病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。ロシア兵が先頃の戦争で経験したように、過去のすべての歴史において、敵と戦った兵士がこれほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。それと同時に、どこの国の婦人でも、日本の婦人ほど気高く優しい役割を演じたことはなかったのではあるまいか。


日露戦争に於いて美談は数々の記録として残る

第一次大戦
日露戦争時同様、戦時下においては陸海軍とも国際法を厳しく守り、捕らえたドイツ軍俘虜は丁重に扱った。青島で捕獲した俘虜約4,700名は徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、ドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本人に伝えられた。

ベートーベンの「第9」はこのときドイツ軍俘虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。ドイツに帰還した元俘虜はこのときの扱いに感謝し、「バンドー会」を結成している

後にヨーロッパの戦勝国は世界の秩序をもとに戻そうとパリで講和会議を開いた。それぞれの国にはそれぞれの思惑があったが、一致していたのは、日本とアメリカからの申し入れには耳を傾けよう、という姿勢だった。

■レジナルド・カーニー=アメリカ人。歴史学者。黒人学専攻。ハンプトン大学助教授。より
 ウィルソン大統領は、世界秩序回復のための十四カ条を手に、パリに乗り込んだ。彼がまず唱えたのは、国際法と国際秩序の確立であった。日本の代表団は、ウィルソンが出せなかった十五番目の提案を持って講和会議に出席した。「わが大日本帝国は、国際連盟の盟約として、人種平等の原則が固守されるべきことを、ここに提案する」。これこそが、いわゆる十五番目の提案であった。……人類平等の実現をめざしていた日本と、そうでなかったウィルソン、その差がここに出たといってもよいだろう。

 もし日本のこの十五番目の提案が実現されていれば、アメリカ黒人にとって、おもしろいパラドックスが生じていたかもしれない。……アメリカ黒人がほかの連盟国の人間と同じように、民主的に扱われるためには、アメリカ以外の外国に住まねばならなかったはずである。そんなパラドックスが生じていたかもしれないのだ。……「おそらく世界で最も有望な、有色人種の期待の星」、それが日本であるという確信。日本はすべての有色人種に利益をもたらすという確信があったのだ。それは、たとえ一つでも、有色人種の国家が列強の仲間入りをすれば、あらゆる有色人種の扱いが根本的に変わるだろうという、強い信念によるものだった。……全米黒人新聞協会は、次のようなコメントを発表した。「われわれ黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を闘わせている日本に、最大の敬意を払うものである」「全米千二百万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」。

(引用者注:日本が提出したこの「人種差別撤廃法案」の投票結果は賛成17、反対11であったが、委員長を務めていたウィルソンが、かような重要案件は全会一致でなければいけないとして、不採択を宣言した)
  
日本が連合国5大国の一国となり、戦後にヴェルサイユ条約により山東省の権益と、アメリカ領フィリピンとハワイの間に位置するパラオやマーシャル諸島の統治権を得たことや、シベリア出兵を続けるなどアジア太平洋地域においてアメリカの利権に影響を与え出したことに対して、アメリカ国内で日本に対する脅威論が支持を受けた他、これに後押しされた人種差別的指向を持つ諸派が「黄禍論」を唱え、その結果日本からアメリカへの移民が禁止されるなど、第一次世界大戦終結後に日本とアメリカの関係は悪化することとなった。

さらにアメリカは、日本を5大国の一国に押し上げる原動力の1つとなった日英同盟を妨害すべく、太平洋における領土と権益の相互尊重と、諸島における非軍事基地化を取り決めた「四カ国条約」を提唱し、1921年には日本、アメリカ、イギリス、フランスの間で同条約の締結に成功し、同時に日英同盟は解消された。この結果日本は国際的に孤立し、その後日本は英米との対決姿勢を取ることを余儀なくされる。


後に敗戦国となり戦勝国のプロパガンダ

そして閉ざされた歴史ある道徳教育

南京大虐殺やその他・・・・・多くの悪いイメージを残す事になる
(その戦争により一般市民も巻込まれ命を落とす事は多少なり存在する虐殺とはまた違う意味だ終戦から半世紀が過ぎ南京虐殺30万と言われたものはプロパガンダに過ぎなかった・・・しかし戦勝国の東京大空襲や原爆投下は虐殺では無いのか疑問が残る)
http://www.youtube.com/watch?v=tTiLFdwhDes
http://www.youtube.com/watch?v=Oj945v_02Mo
http://www.youtube.com/watch?v=_NH_a94fzEw
http://www.youtube.com/watch?v=sAHEKebbhy0
http://www.youtube.com/watch?v=O0ZPeFDG_BA
http://www.youtube.com/watch?v=6_0w2UP1s1Q
平和な難民キャンプ。 そして、秋の南京における修理仕事の状況。 共産主義独裁政権歴史家を信頼してはいけません。 この画像は、南京で実際に何があったかを証明します。 南京大虐殺を示す証拠は、中国の広告部および証拠のない証言によって捏造された写真だけであると考えられます。 歴史上中国は、自国の市民を何百万人も虐殺してきました。 中国は今、チベットとウイグルで何を行っていますか。 John Rabeは自身の会社の利益のために嘘をつきました。そして、H.J.Timperleyは国民党宣伝部から報酬を得ました。

再審「南京大虐殺」
http://www.ne.jp/asahi/unko...


日本の大東亜共栄圏の目的は、アジアの欧米列強植民地をその支配から解放、独立させ、現在の欧州連合のような対等な国家連合を実現させることであった。大東亜宣言には直接植民地にしない『相互協力・独立尊重』などの旨が明記されている。(独立尊重とは、民族自決権である)
日本軍は占領地域に対して実質的な独立を与えぬまま敗北し、日本占領下において日本語による皇民化教育や皇居遙拝(ようはい)の強要、人物両面の資源の収奪などが行われたことから、日本もかつての宗主国と同じか、それ以上の侵略者、搾取者に過ぎなかったという見方がある。

敗戦後GHQにより廃止された教育勅語

日本の文化の伝統と独自性を持つ教育勅語からは数千年の歴史とその教えが、教育勅語の冒頭を始め、その全体に生き生きと現れているのである。

ここにある教育勅語という現実からは、日本という国の尊さ、深遠さ、その建国から連なる綿密性が生き生きと感じられるのである。
軍国主義との関連
教育勅語が軍国主義に繋がったのではなく、軍国主義が教育勅語を利用したと考えるのが正解のように思う。

上に述べたように、教育勅語は非常に平和的な道徳を説いている。 一言で言えば”人間、完璧ではない。狂うときもある。” ということである。 全てをごっちゃにし、戦争時代にあったものは全て悪いものだったという風潮が一部の論者、特に左翼主義者に根強いが、教育勅語に関して言えば、それ自体は全く問題がないものであったと思える。


アメリカの対シナ政策を大きく誤ったアメリカ(歴史にWhat ifは無いがあえて大日本帝国軍部も本来の対アメリカより大東亜共栄圏の本来の基本戦略を守ってれば・・・)
支那と朝鮮半島北半分が共産化し、東アジアに於けるソ連の存在感は驚異的に拡大することは避けられただろう


結果として

大東亜戦争は世界の地図を塗り替えるほどの結果をもたらした。民族は解放され、世界の各地でそれぞれの民族が独立を果たした。大東亜戦争の目的を完璧に果たしたのである。日本は、戦争には負けたが、その目的を見事に完璧なるまでに果たしたのである。 これはまさに、世界史上の最高峰であり、人類五千年の世界史上から見ても、大東亜戦争以上の大事件は見あたらないのである。

大東亜戦争の意義を認識する者は、次のように雄弁に語る。

 アレキサンダー帝国の建設も、ジンギスカンの大遠征も、ナポレオン戦争も、第一次世界大戦も、大東亜戦争の規模、内容、結果に比べたら、ものの数ではない。歴史的時間の経過と共に、この大事件の意義が、虹の彼方に富士山やエベレスト山のように、明瞭に、雄大に、英姿を現してきたのです。(中略)
 近世、世界史上人類解放の三つの革命があったといわれる。それは、「産業革命」と「フランス革命」と「大東亜戦争」である。産業革命で労働から解放、フランス革命で自由と平等を、大東亜戦争で有色人種四十億人が白人の奴隷支配から解放された。この最後の解放ほど偉大な歴史があったであろうか。


戦後の荒廃から立ち上がった日本
それは、まだ戦前の教育が体に染みた先輩達の努力の賜物と言っても過言でないだろう

時代は我々そして子供達へ・・・日本の文化の伝統と独自性を持つ教育がなくなり個人主義が。
今後の日本はどこへ

もう一つの真実と誇れる日本道徳

ここでは、太平洋戦争と言わず大東亜戦争と称し
85歳になる自分の親父は大東亜戦争と言う
1945年(昭和20年)8月の日本進駐後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が中心となり、軍国主義、全体主義、極端な国家主義などを日本から排除する政策を行った。その一つが1945年(昭和20年)12月15日付けの日本政府に対する覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(「神道指令」)である。これにより、日本語としての意味の連想が国家神道、軍国主義、国家主義と切り離せないと判断され、「大東亜戦争」は「八紘一宇」(八紘一宇は「世界一家」を意味する語)などの用語とともに公文書で使用することが禁止された。

また、1945年(昭和20年)12月8日(開戦4周年)には新聞各紙がCIE作成の「太平洋戰爭史」の掲載を開始、さらに翌日からは日本放送協会から「眞相はかうだ」のラジオ放送が開始され、「大東亜戦争」という用語は強制的に「太平洋戦争」に置き換えられていった


自分は「過去において、日本は他の国を侵略するために戦争を行った」と思ってきた。
自分の国が悪い国だなんて信じたくないが、そう思わざるをえない
学校でもそう教えられて、テレビや新聞などマスコミの多くもそのように情報を流していた。
戦争のことが話題になると、嫌な気持ちになったものだ。アジアの人々に申し訳ないと思い、
罪悪感から戦争の話題から逃げ出した。そして自らは自信を失くしたのだ。




日本人なら、知っておくべき歴史だと思う





大東亜戦争『開戦』の真実

昭和16年12月8日大東亜戦争が開始された戦後の日本に於いては、この戦争の原因と背景をもっぱら自国内にのみ探ろうとする傾向が著しく強かった(日本の中だけにあの戦争の原因があったのだと言う考え方)
しかし、戦争は当然ながら(相手=敵)がなくては成立しない。敵側の動きにも十分目を届かさなくては、公正な歴史観にはなり得ない。
そこで、その点にも配慮しつつ、大東亜戦争開戦の背景を探ってみると、どう見えてくるか?。
開戦の直接原因は、言うまでも無く、何とか戦争を回避しようと続けられて来た日米交渉の決裂で、その決裂を決定付けたのはアメリカのハル国務長官から11月26日に提示された「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」なる文章(いわゆるハル・ノート)だった。
その内容は、交渉スタート時にアメリカから示された「4原則」(4月16日第3回会談)に加えて、シナ及びフランス領インドシナからの一切の日本の陸・海・空の兵力及び警察力の撤収、(シナ大陸に於ける)汪兆銘政権の切捨てなどを求めるもので、到底日本が受け入れられるものではなかった。
それが日本に戦争を強制するものであることは、ハル長官自身がよく承知していた
このハル・ノートの起案者はハリー・デクスター・ホワイト財務次官。彼は戦後、ソ連のスパイである事が発覚して自殺してる
資本主義国同士の日米戦争はソ連及び国際共産主義の利益にかなう。
だから彼が日本がとても受諾出来ない提案を作ったのは当然。さらにその背景としてルーズベルト大統領自身も対日戦を望んでいた事実がある。
それは8月9~12日にかけてイギリスのチャーチル首相と大西洋会談を行った際、「たとえ攻撃されなくても極東の戦争に参加」する事を約束したと考えられる事も明らかだった。
(これはチャーチルの演説の中のその内容を検討すると明らか)
一方対米戦を避けたかった日本側は、8月に近衛首相とルーズベルト大統領の首脳会談を提案。
そこでシナ本土からの撤兵など大胆な譲歩を示して、昭和天皇の詔勅を頂いてでもその条件の厳守を国内に徹底し、なんとしても日米合意を実現しても戦争を回避する決意であった。
もしこの会談が、実現してれば、日米戦争はさけられていた可能性も、十分考えらる。(それほど日本は思い切った譲歩を考えてた)
だが、対日戦を望むアメリカ側が拒否。
当初ルーズベルトもこれに応じようかと考えたがハル長官がそれを遮って結局その会談は実現しなかった
しかも、これ以前にアメリカは日本資本の凍結(7月25日)と対日石油禁輸(8月1日)に踏み切って石油禁輸は既に戦争行為と言い得る。よって日米戦争は基本的にアメリカから仕掛けられた戦争であった。そう言う性格を濃厚にもってた。
マッカーサーが戦後、大東亜戦争について
「彼ら(日本)が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られての事」と発言した(昭和26年5月3日、米乗員軍事外交合同委員会)もの、そうした事情を踏まえての事であった。
では、アメリカが戦争を意味する石油禁輸に踏み切った理由はなにか?日本軍の南部仏印進駐(7月28日)が直接のキッカケ。
これは、対日包囲網の形成上、重要な地域であり、米英側の手が伸びる前に日本が先手を打ったものだ。
それと共に、近衛首相の側近のコミンテル(国際共産党)スパイで朝日新聞の記者だった尾崎秀美が日本の軍事力が北のソ連に向くのを阻み、(要するに日本の軍事力が北(ソ連)に向かうとナチスの軍事力とソ連は挟み撃ちなって窮地に陥る)
南方に向くように工作を進めていた事の影響もあったであろう。
なお、これより前、ドイツに占領されるのを防ぐべく、先手を打ってイギリスはアイスランドを占領し(昭和15年5月)、アメリカはグリーンランドに空軍基地を建設(昭和16年4月)してる
即ち日本の南部仏印進駐は当時、決して特異なものではなかった
日米対立が激化した起点はどこか?
昭和15年9月の北部仏印進駐で支那事変の最中、アメリカを中心とするイギリス・フランス・オランダなど諸国が、蒋介石政府(日本と事変態勢にある)に対し、資金や武器の援助を行っていた。
その援助物資を輸送するための「援蒋ルート」のうち最も重要ものが仏印ルートで日本としては支那事変の早期終結のため、このルートを遮断する必要があった。
そこでドイツに降伏したフランスのビシー新政府と2ヶ月に及ぶ外交交渉の末、仏印領土保全とフランスの主権尊重、軍隊は6000人以下4ヶ所の飛行場周辺に限定、支那事変解決までの暫定処置である事を明文化した上(松岡・アンリ協定)で9月に平和的に日本軍の進駐を開始した
ところがアメリカはこの協定を認めず、日本に対する屑鉄屑鋼の全面禁輸(昭和15年10月)を断行した
しかし、日本と戦闘を続ける蒋政府への軍事支援は、それ自体事実上の「参戦」と見なす事ができよう
かくて日米戦争の淵源がシナ事変でのアメリカの支那への一方的な肩入れにあったことには疑いの余地がない
その際、ルーズベルト大統領の補佐官で支那問題について独占的に助言してたラフリン・カリーがソ連のスパイであった(後にコロンビアに亡命)事実は重大だ。そもそも支那事変そのものの勃発と拡大についても、中国共産党の策謀(29軍副参謀長張克侠、京ご警備司令官張冶中らの工作)及びその背後にコミンテルンの指導(興亜院政務部編「コミンテルンに関する基本資料」)が有ったことが既に指摘されてる
大東亜戦争に於ける日本の敗北の結果、支那と朝鮮半島北半分が共産化し、東アジアに於けるソ連の存在感は驚異的に拡大した
これはソ連の国際的策謀が大きな成果を生み出した事を意味し、その責任の多くは、ことさら日本を戦争に追い込んだアメリカの失政に帰せられるべきであろう
昭和39年7月に訪中した社会党左派グループが日本の「侵略」を謝罪したのに対し、毛沢東は「(あの戦争が無ければ)中国共産党は政権を奪取する事が出来なかった」と率直に表現してる。
これは、対シナ政策を大きく誤ったアメリカに対する最大の皮肉であろう。
大東亜戦争の開戦をめぐり、日独伊三国同盟の締結など、日本側にも国策上の誤りがあった事は、無論見逃すべきでなかろう。しかし、最も歴史に学ぶべきなのは、シナ問題の本質を見誤ったアメリカではあるまいか。
ヨーロッパに於いて共産圏を拡大させたヤルタ密約が誤りであった事は、既にブッシュ大統領も認めている。
ならば、日本を戦争に追い込む事で、東アジアにおいてそれに劣らぬ事態を招いた事の過ちも、率直に認めるべきであろう
東アジアにおいてアメリカの最も信頼すべきパートナーは日本か中国か。アメリカは今後も歴史を顧みて、懸命な判断を持つべきだ。

もし、あの時アメリカが事態を正確に見通す事ができ、蒋介石政権に対する莫大な支援を停止していたならば事態は大きく変わっていったはずで、支那事変も早期に終結を見ただろう
支那事変の終結を見れば日米の大きな対立も拡大する事なく日米戦争も回避されたに違いない。

真実はどこに・・・・



日本がアジアに残した功績



世界に類を見ない300年の長い平和が続いた歴史に日本の(江戸時代)がある
その平和な歴史の間アジアの国々は植民地時代へと・・・
幕末、西洋列強に対して民族存亡の危機から日本は立ち上がったと言っても過言でなかろう

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民間道徳から教育勅語へ

江戸時代、庶民は仏教・神道・陰陽道・道教などが結びつきあった独自の民間信仰に因る道徳観念を持っていた。

慶応3年(1867)10月、大政奉還が行われ、12月9日には王政復古が宣言され
まさに時は明治維新、時は大きく変わろうとし「五箇条の御誓文」が出されたのは次の年の3月であり、
同じ年に明治元年となった。 この御誓文は、まさに明治時代を象徴するものであったと言えよう。
明治維新とは何であったのか、と考えるとき忘れてはならないのは、それが「維新」であると同時に
「復古」でもあったということである。この「五箇条の御誓文」はまさに、「復古」の象徴とすべきものである。
一見したところでは海外からの輸入品と見られがちな内容であるが、実態は伝統の上に根ざしたもので

以下に訳すと
一広ク会議ヲ興(おこ)シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スベシ
「広く会議を開設し、何においても公の議論によって決めること。」
一上下(しょうか)心ヲ一(ひとつ)ニシテ盛ニ経綸(けいりん)ヲ行フベシ
「上に立つ者も下に立つ者も心を1つに合わせて国のため、活動にはげむこと」
一官武一途庶民ニ至ル迄各其(おのおの)志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦(う)マザラシメン事ヲ要ス
「官史も武士も庶民もみな一つとなって、それぞれの志を遂げることができるようにして、
 国民が失望したりやる気を失うことがないようにしなければならない。」
一旧来ノ陋習(ろうしゅう)を破リ天地ノ公道ニ基クベシ
 「天地ノ公道」とは今で言う「国際法」のことで、当時は「万国公法」と言われた。
 よって、国際法に基づく国を作ってゆこう、という宣言でもある。
 「古くからのしきたりに囚われず、世界に通ずる普遍的な道理に基づいて行動して行こう」
一智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基(こうき)ヲ振起(しんき)スベシ
「知識を広く海外に求めて、大いに日本という国を発展させるべきである」
最後の結びとして
我国未曾有ノ改革ヲ為(なさ)ントシ 朕躬(ちんみ)ヲ以テ衆ニ先シ 天地神明ニ誓ヒ 大ニ斯(この)国是(こくぜ)ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ントス 衆亦(また)此(この)旨趣ニ基キ共心努力セヨ
「我が国はかつてない改革を行おうとしている。朕〔天皇〕はまず先に、天地神明に誓って大いにこの国の方針を定め、万民の保全の道に立とうとする。 庶民はこの趣旨に基づいて、共に心を一つにし、努力すべし」
この最後の結びの最後の1行はほとんどの教科書で省かれているという。


万国公法について (コラム)
万国公法とはヨーロッパ人たちが長い戦いの末にやむなく作った戦いのルールである。
それを日本では最初から善とみなし、自ら守り見に付けるべき目標として受け入れてしまった。
次のような視点に欠けていたのである。

もともと万国公法は、ヨーロッパ中心主義の、
そしてヨーロッパ人にとって自己の戦争を優位かつ合理的に展開するための
ルールとしてつくられた国際法であった。その底には彼らの非キリスト教徒、
非白人への蔑視と、コントロール術が内包されていた。その点に気がつかずして、
幕末の志士たちは、万国公法を学ぶことが文明開化であり、
新しい時代への参入であると嬉々としてこれを迎えた。
文明開化は、長い目で見ると日本にとって、西洋という悪魔とのつき合いの始まりだったのである。
黒船が襲ってきた時の恐怖はすぐ忘れられ、賑やかな西洋文明礼拝の風潮が高まるにつれて、
その文明にはウラがあるなどとは、誰も全く気がつかなかった。日本人の性善説に立つ「単純さ」は、哀れなほどである

明治2年頃から、小中学校が次々に竣成されている。一方で、その学風は急速に西洋化されていったようで
明治5年、一般人(華士族農工商及び婦女子)の全てが学問を学べるよう制度化された。
同年、福沢諭吉が「学問のすゝめ」を出している。そして明治12年、小中学校が十分な数(小学校2万8千、師範学校・中学校196)に達し、
家に不学の人なからしめん」との聖旨は達成された。

そして教育勅語へ
これは、西洋の学術・制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したものである。
もちろん、西洋文明にも宗教(キリスト教)を背景とした道徳教育は存在するが、
それを直接日本人に適用するわけにもいかず、
かといって伝統的に道徳観の基本として扱われてきた
儒教や仏教を使うことも明治新政府以降の理念からすれば不適切であった。
このため、伝統的な道徳観を天皇を介する形でまとめたものが教育勅語とも言える。
こうした道徳観は、伝統的な儒教とは異なるものであり、江戸時代の水戸学からの影響が指摘されている。
教育勅語は明治23年(1890年)に発布された
以下が略
 【天皇の歴史観】
 私、天皇が振り返って考えてみるに、神武天皇の建国は大変な偉業であり、歴代の天皇は道徳の確立に励まれていた。また国民も公的には忠義であり、私的には孝行であった。そんな皆が、心を合わせて美しい日本の姿をつくってきたのは、我が国の最も素晴らしい所である。教育というものも、この部分に由来しているのだ。
 【国民への命令】
 国民達よ。父母を大切にし、兄弟や夫婦と仲良くせよ。友人とは信頼を持って付き合え。自分を謙虚にして、人々とは博愛の心で付き合え。
 学問を習い、技術を身に付けよ。知識を深め、そして道徳を高めるだけでなく、一歩進んで、世の中の役に立ち、世界で活躍するのだ。
 道徳や法律を尊重し、大事が起これば迷う事なく公の為に働け。

 そのようにして、天地の続く限り、永遠に繁栄する日本国をつくってゆくのだ。以上の事を実行する者は、立派な国民となるだけではなく、御先祖様が立派であったことをも証明できるのだ。 
 【結びの言葉】
 以上の言葉は、歴代天皇が教え伝えてきた命令である。
 私やその子孫である天皇も国民も、区別なくこれを守らなければならない。この教えは、どんな時代に当てはめても間違っておらず、どんな国に見られても恥ずかしくなく、立派な教えである。私も国民も常に心掛けて、同じように立派になるよう、切に希望する。


【海外の反応】ちょっと前のにっぽん人




戦勝国の良心


平成3年、日本傷病軍人会代表団が戦時は敵国であったオランダを訪問した際、同国の傷病軍人代表と共に聞いたアムステルダム市長の挨拶が、以下のものである。

「貴方がた日本は、先の大戦で負けて、勝った私どもオランダは勝って大敗しました。今、日本は世界一、二位を争う経済大国になりました。私たちオランダはその間屈辱の連続でした。即ち勝ったはずなのに、世界一の貧乏国になりました。戦前はアジアに本国の三十六倍もの大きな植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で本国は栄躍栄華を極めていました。
 今のオランダは日本の九州と同じ広さの本国丈となりました。あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。
 あなた方こそ自らの血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。何故ならあなたの国の人々は、過去の歴史の真実を目隠しされて、今次大戦の目先のことのみ取り上げ、或いは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史をふり返って、真相を見つめる必要があるでしょう。
 本当は私共白人が悪いのです。百年も三百年も前から競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。植民地や属領にされて長い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想をかかげて、大東亜共栄圏という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
 本当に悪いのは侵略して権力を振っていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現しました。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わりました。その結果アジア諸民族は各々独立を達成しました。日本の功績は偉大です。血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです」





                        (作成:石原 様 / 春を思えば)


この歌について宮沢和史は1996年にねじめ正一とのテレビ対談において「坂本九の『上を向いて歩こう』のような歌を作りたかった」と述べている[2]。また、宮沢はニュース番組「NEWS ZERO」において、「沖縄戦があったことは知っていたが、集団自決やひめゆり学徒隊などのことを知らなかった。その無知だったことに対する怒りや、当時の軍事下の教育に対する疑問みたいなもので怒りがこみ上げて、地下のガマに残っている皆さんの魂を空に解放したいなみたいな思いがあって、東京で『島唄』を作った」と述べている


アメリカは日本に勝つ為必死に日本を研究して日本は敗戦後アメリカから学ぶ事を躊躇わなかった
そして見事な経済復興をとげ
その意味で真珠湾は日米同盟に向かう重要な礎石としての意味も持っていた。
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 大西瀧治郎中将の遺言

特攻隊の英霊に日す 善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。

次に一般青少年に告ぐ 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり 隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ 諸子は国の宝なり 平時に処し猶克く特攻精神を堅持し日本民族の福祉と世界人類の為 最善を尽くせよ。


遺書

お父様、長らく御無沙汰致しております。その後お変わりなく、お働きの事と存じます。

俊郎も至極強健、操縦任務に献身致しておりまする故、なにとぞ御安心下さい。

内地の報を耳に致す度に、我が胸中裂けん思いで一杯です。

馬来の状況も、日一日と悪化致し愈々我が、今に生まれし特攻隊として、
    
敵空母戦艦撃沈さすその時期を、待つのみです。



お父様俊郎は、鎌倉に生まれし事を嬉しく且つ、幸福に存じます。

俊郎、生を受けてより今日まで何一つ孝をなさず。子としての、務めに非ずと

思いしも致せず。

しかしながら俊郎、ひと度び特攻機と、運命を共に致した時はどうかこれが、

俊郎の最初で最期の孝行と思って下さい。

皇民と生まれし我の幸せ、人間一度は死するものなり、黒か白か二つの内一つ

つなり。白き箱にて、帰りました暁にはどうぞ、花の一枝でも上げて下さい。

男の本懐之に過ぐるにあらん。

敵、本土上陸せば親も子も非ず、ただ国に身を尽すのみ。

暫くすれば俊郎と、靖国の社にて親子の対面なり。


ああ壮なる歳、十八歳にして特攻隊として死せるか、悠久の大義に生きるか、

我、笑って死なん。

馬来の夕暮れ椰子の葉、夕日が西に沈まんと欲す。

我一人、遠き郷里の母の顔を瞼に浮かべ、父母の健在を祈る。

願くば靖国に来りて。   

俊郎より

 時枝に告ぐ

我が妹なりと思えば何か、筆を走らさん。

兄として何一つ、面倒を見ずして死するは実に、悔むるところなり。

しかしながら我が志、何か通はん。

十五なりといえども、今は子供に非ず。兄無き後はよく、父母に使へ兄の分まで

孝をなしてくれ。

妹、勝子の指導又大なり。私心に走ること無かれ、本性を理解せよ。
 
                                                         兄より



国(君)の為、何が惜しまん我が命、死して護国の

  神と化しなん





彼らはもっていた
己の命より尊い価値を
それは戦後生まれの日本人の大多数がもってない
価値である

我々はその誇り高き民族意識を忘れてはならない


ん・・CBXのエンジンが?

MOTOFILEさんのブログを見て・・・CBXのエンジン2個でV型12気筒2000ccのバイク?
1980年代初頭は二輪排気量販売規制で750ccまで、二輪免許に於いても限定400cc(中型)で大型自動二輪の取得は至難の技だった頃。
CBX1000(直列6気筒1000cc)が輸出用とされた中、国内販売の主力は既に中型(400cc)に移り後にCBX400として国内で販売された記憶がある。

↓それにしても凄いバイクに改造するな~!!
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30年程の前のバイクエンジンを改造して・・・・動いてますよ



これもCBXとほぼ同時に輸出用とされたカワサキKZ1300(直列6気筒)改造のV12
ベースはKZ1300のエンジンをボアダウン?



もっと昔に遡るカワサキSS750(2サイクル)のエンジン16台分(3×16台)48気筒?



しかし・・・・楽しいですね。
クレイジーか (笑

ついでに親父が30年ほど前CBX1000に乗る姿
(若い!!現在のメタボから想像できない(笑 )
二十歳代の親父CBX1000に乗る箱根にて二十歳代



↓ついでに、もう一丁!楽しい奴ら

軽CARによる奈良・大阪・京都めぐり

軽CARで3日間(2/5~2/7)に及ぶ1383km旅は無事に終わった
奈良に有る磨崖仏として彫りつけられている小夫の庚申塔と近畿地方に古くからある有名な大阪四天王寺の庚申堂、小泉庚申堂(大阪と奈良の間)と京都の八坂神社にある「庚申堂」を訪ねる目的

2/5午後7時40分に群馬県太田市の自宅を出発
普通タイヤ夜間の走行なので長野自動車道や中央自動車道を避け関越自動車→圏央自動車あきるのIC→一般国道→東名厚木ICへ東名自動車道→伊勢湾岸自動車道→東名阪自動車道→名阪国道で奈良県桜井市へ
当日気象は荒れて東名阪自動車道→名阪国道は雪模様・・・無事翌日午前4時には桜井市に道の駅にて仮眠を3時間程とり目的地へ向かう

近畿地方へ長距離は意外にも楽しい軽CAR(軽CARの高速走行100km以上は風やトラックの風圧に恐怖を感じる事があるが・・・)目的を探す場合狭い路地や山道はこの上なく楽だ。
先を急がずゆっくり移動すれば軽CARの本領発揮ともなるだろう。驚く事に奈良までの燃費は仮眠時(3時間アイドリング)を含め15.2km/ℓをマークした

奈良の小夫から狭い舗装林道を抜け大和群山へ向かう途中(眼下に見える町は天理市)

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大和群山の小泉庚申堂を訪ね近くに有る法隆寺へ

法隆寺は、30年以上前中学修学旅行で訪ねて以来で息子はまだ記憶に新しいようだ
大宝蔵院は
百済観音堂を中心とする東西の宝蔵には、有名な夢違観音像(白鳳時代)・推古天皇御所持の仏殿
と伝える玉虫厨子(飛鳥時代)・蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)
をはじめ、百万塔や中国から伝えられた白壇造りの九面観音像・天人の描かれた金堂小壁画など、
わが国を代表する宝物類を多数安置してる。
この歳になり改めて拝観し感動を覚える時間だった

法隆寺の五重塔
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法隆寺を後に大阪四天王寺の庚申堂へ
その後、京都の八坂神社・庚申堂の予定だが、息子の提案にて先に「たこ焼 いっちゃん」へ向かう

関西テレビ放送 [ 番組 よ~いドン! ]で となりの人間国宝さん に認定されたオヤジさんを訪ねる

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この日京都は底冷えのする寒さで時折雪がちらつき
群馬方面では夜から雪の予報で帰りの帰路が心配・・・・前日交換したタイヤはノーマルタイヤで雪道は不安。。

オヤジさんの親友(以蔵ちゅん)からカーショップの場所を聞きスタットレスタイヤを購入しに行く
京都にタイヤを買いに来たのか?・・・・・(笑

ノーマルタイヤは車に積み4時頃タイヤ交換を済ませ「たこ焼 いっちゃん」に戻る
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八坂神社は次の楽しみに・・・・・
宿は近くの馴染みの宿へ
翌日オヤジさんに挨拶し午前10時頃京都を発ち帰路はタイヤも冬用で中央高速経由で地元北関東群馬へ
帰宅は思ったより早く午後6時前に到着1383km旅は無事に終わった。





戦国時代の庚申塔
この時代公家や守護大名・戦国大名たちが「守庚申」として庚申の行事をおこなってたが、庶民の間にも
次第に庚申信仰が浸透してきて、16世紀には各地で庶民による庚申塔の造立が進みだした
ただこの戦国時代の早い時期の庚申塔は、中心に捉える本尊は、阿弥陀如来・地蔵菩薩・大日如来あるいは、
阿弥陀三尊など各種で、それらが彫像や文字、種子で彫られ、猿や鶏、日や月等、主尊として青面金剛・庚申文字はまだ現れない
この古い庚申塔は比較的奈良県内に多く見られ長谷寺への参道として早くから賑わった初瀬(はせ)
街道沿いにある奈良県桜井市小夫(おぶ)には、近年道路改修で道幅の拡張に伴い、かつての崖も開削され
磨崖仏として彫りつけられてた庚申塔も今は道路の中央に大きな岩の塊として遺されてる
二つの塔の前には榊や花が供えられ今も続く土地の人の信仰も偲ばれる

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街道に沿って並ぶ二基の大きな自然石の庚申塔は何れも「南無阿弥陀仏」の名号が中心に彫られ
左右に「庚申供養」「天正十一年九月十五日(?)」と刻まれており、一基には少し離れて地蔵菩薩(?)の
小像が彫られてる

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こうして、江戸時代初期に向けて庚申信仰が、供養塔としての「庚申塔」を造立する風習を生み出す
と共にこの風習が各地にひろまり、今日私たちの身近に有る庚申塔がみられるようになる。


時は江戸時代に向かい講が組織され・・・
庚申堂
中国の神仙思想から道教につながる「三戸(さんし)の虫」の難を避けることから始まった上流社会での「庚申守」は、室町時代頃から庶民の世界に浸透するとともに、守庚申としての集まりが次第に「庚申待」「猿待」と呼ばれるようになった
この庶民の世界に入り込むのは修験道などの行者が各地にもたらしたと言われ、それらと併せて仏教ともつながって行く
室町時代後期から江戸時代になり、各地に庶民の講が組織されその拠点ともなったのが主な地域にできた「庚申堂」とも考えられる。
特に江戸時代に入る頃からはこの「庚申堂」への参詣者が増えたり、仏教とつながる「庚申縁起」なども発行され、流布すると日頃の生活が地縁的な面が強い庶民の間では、農民における「作神」・「田の神」信仰などと結ばれながら次第に地縁的な集まりを中心的にして村の幾つかの「講」が組織され、庚申信仰はこの「講」が主体となり展開するようになる
庚申信仰の仏教的色彩はさらに拍車がかかり、今も賑わう庚申堂の周辺には庚申信仰の一端を垣間見ることができる
古くからの「庚申堂」として有名なのは、大阪大阪四天王寺庚申堂・大和郡山の小泉庚申堂・京都八坂の庚申堂などがある

江戸時代には日本三庚申として大阪四天王寺庚申堂・大和郡山の小泉庚申堂・八坂庚申堂に江戸の
入谷庚申堂(現存しない)を挙げ「江戸名所図絵(文政十二ねん=1829)」に紹介された
「寅さんの男はつらいよ」の映画で有名になった東京葛飾柴又の帝釈天(経栄山題経寺)もその一つ


大阪四天王寺庚申堂
四天王寺南大門から南に下った所にある
付近には「こんにゃく」屋さんが多く「こんにゃく」は腹の中の砂を洗い流す事と重なって
三戸の虫を払うと信じられてたようだ。
この庚申堂は起源は不明だが・・室町末期には既に存在したと言われてる
寺伝では、「本邦最初庚申尊」として全国の庚申堂もここから勧請されて分身されたものが多いと伝えられる
この庚申堂所蔵の「延宝八年1680銘」の庚申起源は書類の中でも権威のあるものとされ、全国に広まったとも言われてる

青面金剛を祀る庚申堂
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境内には付近にあった庚申塔が10数基納められ、特に三猿と二鶏だけの初期の庚申塔が目につく
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小泉庚申堂
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大和郡山市にある天台宗寺院の光輪院には「一国一文字庚申堂」として有名な小泉庚申堂がある
境内の庚申さまに「お百度参り」で願をかけた人が多かったと思われる笠付の「ウーン」の種子と
「庚申百度石」の文字が刻まれてる石柱が建ってる
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ここでも毎年、初庚申から納め庚申まで六度乃至七度の庚申縁日の催しが行われ
本堂には、内陣と外陣を仕切る欄間の下に近郷在住参詣者が奉納する「くくり猿」が有名
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近畿地方に於ける庚申宗教(民間宗教)の旅を終え
今後の北関東庚申塔発見に一層意味が増した気がする

今現在はその民間宗教が消えようとし・・
有る意味民間宗教は民間道徳として生き続けた。と言っても過言ではないだろう


寒さに負けR1200RT却下・・・

当初バイクで行こうと・・・・
しかし、道中の安全を考えると手軽で早いバイクはこの時期あまりにも危険
普通自動車で行けば良いのだが・・・・あえて軽CARでと考えた変わり者
(今日も寒い朝フロントガラスは真っ白)
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タイヤも交換時期だったので早速替えて準備OK

寝袋でも積んで一人ゆっくり旅をと思ってたら息子も行きたいらしい・・・・
そんな訳で息子が学校から帰ったら出掛けよう。


目的
◎奈良県桜井市小夫の庚申塔
天正11年(1583年)賎ケ岳の戦…秀吉、柴田勝家を破る年
庶民の間に庚申信仰が浸透し始めた時代 この早い時期の庚申塔は、中心に捉える本尊は、阿弥陀如来・地蔵菩薩・大日如来あるいは、阿弥陀三尊など各種で、それらが彫像や文字、種子で彫られてる
小夫の庚申塔は、磨崖仏として彫りつけられていた庚申塔。近年道路改修で道幅の拡張に伴い、かつての崖も開削され道路の中央に大きな岩の塊として遺されてる

後の庚申待や講に由来する庚申堂
◎大阪四天王寺の庚申堂または、小泉庚申堂(大阪と奈良の間)


先人の人達の民間宗教には多様な要素を含み日本古来からの民族的宗教で庚申塔を造立した
○道教でいう「三戸(さんし)の虫」を封ずるため
○仏教思想に基づいて現世・来世の安楽を願うため
○神道思想によって猿田彦神・道の神に対する信仰による
○陰陽道思想に基づいてる
○「作神・田の神」など農民が古来から持つ五穀豊穣を始め諸々の祈願を込めて祀る風習と重なっている
が挙げられる庚申塔

庚申堂
中国の神仙思想から道教につながる「三戸(さんし)の虫」の難を避けることから始まった上流社会での「庚申守」は、室町時代頃から庶民の世界に浸透するとともに、守庚申としての集まりが次第に「庚申待」「猿待」と呼ばれるようになった
この庶民の世界に入り込むのは修験道などの行者が各地にもたらしたと言われ、それらと併せて仏教ともつながって行く
室町時代後期から江戸時代になり、各地に庶民の講が組織されその拠点ともなったのが主な地域にできた「庚申堂」とも考えられる。
特に江戸時代に入る頃からはこの「庚申堂」への参詣者が増えたり、仏教とつながる「庚申縁起」なども発行され、流布すると日頃の生活が地縁的な面が強い庶民の間では、農民における「作神」・「田の神」信仰などと結ばれながら次第に地縁的な集まりを中心的にして村の幾つかの「講」が組織され、庚申信仰はこの「講」が主体となり展開するようになる
庚申信仰の仏教的色彩はさらに拍車がかかり、今も賑わう庚申堂の周辺には庚申信仰の一端を垣間見ることができる
古くからの「庚申堂」として有名なのは、大阪大阪四天王寺庚申堂・大和郡山の小泉庚申堂・京都八坂の庚申堂などがある
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このように中国からの民間道教や仏教の考え方が溶け合って進むうちに、江戸時代中頃から神道の
「道の神」とされる「猿田彦神」の信仰が加わり、庚申信仰がますます複雑な様相をしめしていく





追記

資料豊かな境遇にて

幼少の頃から、日頃目にしてた庚申塔
田舎に生まれ、まだ小学校に上がる前の記憶が微かによみがえり、80歳になるお袋に電話を入れた
俺『俺が小さい頃、村では庚申塔にまつわる何か行事をしたかい?』
答えは昭和30年代までその集まりを隣組で行っていたそうだ・・・・・・
その後40余年以上は何も無く、ただ一回河川工事で庚申塔を移設する際におこなったと聞く

年月が過ぎ・・・人生の半分以上を過ぎた今、道に数多く残る庚申塔を見て興味を持ち調べ始めた
もっと早ければと思いつつ調べると我が郷土で30年間に及ぶ歳月を費やし足利市内に於ける
庚申塔2300基以上の調査を続けられ、これを優しく敬虔な目で学問的に説かれた
(我が母校の田村 允彦先生)著の足利の庚申塔の本があった

今回の近畿地方に行き新たに一つの始まりとしたい
そして先代達の足跡 庚申塔・道祖神(石仏)風と共に探訪の整備を



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今まで巡る庚申塔は数多いが精査が十分に済んでないのが殆ど・・・・
↓次回はこれを精査しよう


主尊には文字と像が刻まれ、像に関しては青面金剛像の他「如来」「観音」「菩薩」等がある

今回の小さな発見とは、推測であるが群馬県太田市近辺しかない庚申塔である。と言っても過言ではないだろう

発見場所は太田市金山近辺で二対。主尊は袈裟を着た僧侶
上側には日と月と雲 中段に鳥 下段には2拝猿 庚申塔特有の彫り物

金山大光院の近くにある庚申塔 金山山麓にある庚申塔

太田市金山の大光院

大光院は、慶長18年(1611)春、徳川家康によって一族の繁栄と始祖新田義重を追善供養するために開かれた浄土宗の寺で、開山には芝増上寺の観智国師の門弟で四哲の一人といわれた呑龍上人が迎えられました。

 上人は、弘治2年(1556)4月、武蔵国埼玉郡一の割村(埼玉県春日部市)に生まれ、元和9年(1623)8月9日、大光院で入寂した名僧です。

 大光院に入山した上人は、看経・講義・説法などに力を尽くしたため、上人の徳を慕う学僧が大光院には多数集まり、周辺農民も上人の教えを受け入れたので、寺運は栄えました。一方、乱世後の人心は乱れ、天災等の影響で生活は困難を極めていたため、捨て子や間引きなどの非道が横行していました。上人は、その非道を憂い、捨て子や貧しい人々の子供を弟子という名目で寺に受け入れ、寺の費用で養育いたしました。このため、「子育て呑龍」と呼ばれ、今に篤い信仰を集めております(太田市HPより)

これは正に民間宗教が融合した結果で主尊は他に類を見ない呑龍上人の像で有るに違いない

大光院
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金山山麓に有る浅間神社
神社に合祀されてる


では行って来ます

春を待たず奈良へ行こうか・・・R1200RTで?

この時期にバイクで西へと企む親父。
北関東から近畿地方への旅は辛い中央高速は使えず東名高速経由となる
『箱根や関が原は大丈夫だろうか・・・・?』
その気になれば行けるに違いないと。想像しながら色々な事を考える
勿論バイクなら単独予定。
去年11月21日~22日にかけて息子のVTR250とT氏のFJR1300の3台で京都へ向かい、冷たい雨にも遭遇せず無事終り旅から2ヶ月が過ぎ先日北関東では珍しく雪、バイク通勤は諦め最近お気に入りの軽CAR(スバルサンバー)で帰宅し翌日には雪は止んだが寒い冬に逆戻りだ(通勤途中)
そうだ!進学も決まり学校授業が少なくなった息子とサンバーで行こうか・・・商用車なので任意保険も年齢制限が無い。(運転させられるので親父は楽だ・・・・)

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でも・・・やっぱりコイツと行こうか。。。

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何れにしても1泊2日の工程となる
まず初日京都へ向かい|| KTV || 関西テレビ放送 [ 番組 よ~いドン! ]となりの人間国宝さんに認定されたオヤジさんを冷やかしに・・・(笑


その足で奈良へ・・・・

奈良行きを志した発端は親父の郷土で30年間に及ぶ歳月を費やし足利市内に於ける庚申塔2300基以上の調査を続けられ、これを優しく敬虔な目で学問的に説かれた(我が母校の田村 允彦先生)著の足利の庚申塔の本からである

序文より
はや、敗戦後五十六年余を数えるが、その間祖国日本は大きく変わった
政治も経済も社会もそして文化も。勤勉な日本国民は虚脱混迷の中によく立ち上がり、見事に経済復興を成した。が、生活環境の激変は古来からのよき歴史的風土を大きく破壊し、かけ替えのない日本民族の歴史遺産や伝統文化を失わせしめた。
その一つに庚申のまつわりがある。
古代からの庚申の行事は中世には庚申信仰が次第に行われ、近世に入っては庶民に及び日本全国に広まり、家内安全・五穀豊穣などあらゆるご利益願うまさに国民的信仰となった。が、この伝統的信仰も漸く衰え、いまやその歴史を示す「庚申塔」は路傍に風化し、その存在さえも危うくなっている


平安貴族の「庚申の御遊」から鎌倉時代もほぼ同じで公家や上級武士の間で行われ、特に武家社会の様子は「吾妻鏡」などに記録されてる。庚申の夜の催しは京都のそれに倣っていたと考えられる
また、「吾妻鏡」巻三十一の嘉禎三年(1238年)3月9日の守庚申には足利義氏も参列してる事が記載され続く室町時代も「庚申会」が催されていたらしく多くの書物に残る、ただいつ頃から判然としないが、庚申の夜の集まりが庚申会や守庚申などの表現に対して「猿待」と言う呼び方も出て来たようでこの頃には、上流階級だけで無く庶民の間にも広がって行った様子が窺われる。
『庚申信仰』(平野実著、角川選書、1969)には東京都練馬区に有る板碑が紹介され
「長享二年(1488)戊申十月廿九日」の紀年銘「奉申待供養結衆」の銘、僧侶1名と造立者13名と併せマンの種子が刻まれ、庚申塔関係で最古の石造物とされてる
この長享二年の頃には各地で土一揆が起こり、とくに加賀の一向一揆が前年から起こり応仁の乱以降戦国の世に移った世情不安な時代で、神仏に救いを求める庶民の動きも察せられる
戦国時代には、次第に庶民の間にも浸透し、16世紀には各地で庶民による(石板を含む)造立が進み出した。ただこの早い時期の庚申塔は、中心に捉える本尊は、阿弥陀如来・地蔵菩薩・大日如来あるいは、阿弥陀三尊など各種で、それらが彫像や文字、種子で彫られてる。この古い庚申塔は、比較的奈良県内に多い。
奈良県桜井市小夫の庚申塔
磨崖仏として彫りつけられていた庚申塔。近年道路改修で道幅の拡張に伴い、かつての崖も開削され道路の中央に大きな岩の塊として遺されてる
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奈良へ行きたいこの目で見たいそんな単純な親父だ・・・・






20分の距離スーパーシェルパで出かけようと思いきや・・・寒さに負け車で移動

行き先は足利市内に有る徳蔵寺
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千庚申塔が奉納されてる御堂

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希有な千庚申塔(栃木県指定民族文化財)造立寛政12年(1800) お寺の境内外にあり近年剥離も見え出した為今は境内の御堂に奉納されてる
コンデジの撮影の為・・・全体が撮影出来ずに外の写真を添える(左)
総高2メートル90センチ 
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(正面)軸部に千庚申の表記と併せて「庚申」232(左側256 後側256 右側256)の文字が千個彫られてる 

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青面金剛彫像が塔身に示され月・日・二童子・夜叉(正面)

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首部に青面金剛真言の内「オン・ディ・バ・ヤ」の種子(正面)

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基壇に三猿・二鶏(正面)

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塔身に夜叉二体(左側)

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首部に正面に続く青面金剛真言の内「キシャ・バン・ダ・バン・ダ」の種子(左側)

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基壇に銘文(左側)(後側)(右側)と続く(漢文の素養が全く有りませんので後に資料からアンチョコしてこのログへUPします・・・涙)
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塔身中央に「ウン」の種子 右に「寛政十二年庚申年」左に「十二月庚申日建之」(後側)

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首部に左面に続く青面金剛真言の内「カ・カ・カ」の種子(後側)

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塔身に夜叉二体(右側)

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首部に後面に続く青面金剛真言の内「ソワ・カー」の種子(右側)

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春を待たずして奈良へ・・・・?

昔の道徳教育・・その足跡を辿り

↓過去のブログ忘れ去られつつ http://kasehikaru.blog121.fc2.com/blog-category-10.htmlより


繰り返す歴史の中で人間同士の繋がりはグローバルになり地球規模となった

基本的に人は一人では生きられず繋がりの中で生きて行かなければならない
その過程に於いて様々な競争や争いも生じる場合も・・・・・
しかし、人間で有る以上人種を問わず必ずその境遇に有った道徳が有る。
万人が子々孫々の幸福を願うから当然の事だろう
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日本人は明治維新以前、多種多様な道徳教育環境を持ってた(現代でも神社やお寺に向かう初詣はその名残とも言える)教育勅語以前日本の神道と仏教(陰陽道・道教を含む)は融合しあう時代が続き民間宗教が盛んに行われてた

例えば庚申塔に見る民間宗教これは
旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡って、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三し(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われてた。寿命が縮まっては大変!この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごす。日本では既に10世紀ごろには盛んだったようで、『枕草子』、『大鏡』などに記述があり、この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで大流行した。

 身を慎むことから始まり、徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていき。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもあった。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔で、長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻だ。


庚申待と称される江戸時代の民間宗教から民間道徳教育が自分たちによって互いに道徳を育んだとも言える
その庚申待により3年18回の行事を経て庚申塔が建立され
碑面にはさまざまな主尊が登場し多くの主尊が塔面に刻まれている。例えば青面金剛など代表格から
如来であるが、釈迦・薬師・阿弥陀・大日。菩薩では聖観音・馬頭観音・如意輪観音などの観音をはじめ、勢至や地蔵・六地蔵などである。明王では不動や倶利迦羅があり、天部では帝釈天は無論のこと、弁才天や仁王、その他に閻魔・聖徳太子・双体道祖神があると言われる。(北関東は自然石の文字碑面が多い)
形状に関しても様々な姿で現れて(狛犬や鳥居、など等)

↓先日ツーリング中に目を引いた庚申塔は千葉県野田市に多い猿田彦太神と判明
DSC02786_R.jpg 庚申塔は多種多様な姿で現れ、その地方により個性がある

庚申塔の彫り文字に(講中)の文字が彫られてる場合が多く
起源は、文明年間(15世紀)に浄土真宗 本願寺派が布教の手段としてつくった末寺を中心 とした寄り合いの講(講は、本来は仏典を講説す る僧衆の集会を意昧する。転じて信仰行事とそれ を担う集団をさし、さらに転じて共通の利益のた めの世俗的な行事とその集団をさすようになっ た)
江戸時代には民間信仰を白分らの共同生活の基盤の中に入れ、 相互扶助の美風を育てた言っても過言ではないだろう?

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