足尾山地(粕尾峠)を越え渡良瀬遊水地へ(足尾銅山と渡良瀬川2)
- 2013/05/16 22:38
- Category: 足尾銅山探訪
迂回ルート粕尾峠を走り渡良瀬遊水地へ向かう

国道から見る有越鉄索塔の脇の穴は坑道崩落で出来た穴 足尾の町の直ぐ上にある簀子橋堆積場

足尾をあとにして渡良瀬遊水地へ
県道15号粕尾峠を超えて鹿沼足尾線

渡良瀬遊水地広々とした所に出た(第1調整池)

渡良瀬遊水地は、栃木・群馬・埼玉・茨城の4県の県境にまたがる面積33k㎡(東京ドームの約700倍)の日本最大の遊水地です。
この遊水地は、明治23年(1890)の洪水以後、渡良瀬川沿岸は、足尾銅山の鉱毒被害を受け、大きな社会問題となり、鉱毒防止対策と利根川・渡良瀬川の治水を目的に、谷中村を移転し、明治43年(1910)から大正11年(1922)にかけて藤岡町の台地を開削して渡良瀬川を赤麻沼に流し、思川・巴波川の改修も行って築造されました。
現在のハート型の谷中湖(渡良瀬貯水池)は平成 2年(1990)渡良瀬遊水池総合開発事業によって建設したもので、洪水調節だけでなく、首都圏への都市用水の役割も果たしています。水面をわたる風や陽ざしに輝く緑は自然そのもので、さまざまなアウトドア・スポーツに格好の地となっています。
しかし、かってここには、日本の公害闘争の原点といわれる足尾銅山鉱毒事件の犠牲となった、谷中村廃村の歴史が刻み込まれています。役場跡・雷電神社・延命院など、秋になると寺院跡にはきまって赤い彼岸花が咲き、旧谷中村の史跡をとどめています。村の存続をめぐって、命をかけて闘いつづけた田中正造翁の遺徳がしのばれます。
今年、平成18年(2006)7月1日は、国が足尾銅山鉱毒問題の解決と洪水対策を目的に、谷中村周辺の遊水地化を進めるため、農民から土地を買収し、谷中村を藤岡町に強制合併され廃村となってから、ちょうど100年になります。当時の谷中村は370戸、約2500人が暮らす村の約半分は原野で、漁業なども盛んでありました。廃村後も16戸の村民は田中正造と村に残り抵抗を続けた歴史があります。1世紀が経て、見渡す限りヨシなどが生い茂り、貴重な動植物が数多く生育、生息し自然の宝庫となっていることから、渡良瀬遊水地を「ラムサール条約」に登録しようという動きもあります。
一方で国土交通省は、新たな治水事業を進めるため、第2調節池を掘削する計画をもっており、自然保護の観点から、計画に反対する声もあり、治水事業と自然保護が両立できる治水施設となることが望ましいと思っています。
足尾銅山は明治18年(1885)通洞坑、旧小滝坑を開坑し、産銅量は飛躍的に増加し、鉱毒の影響が顕著に現れ、1890年(明治23年)と1896年の大洪水により、足尾銅山から流れた土砂の堆積により稲が立ち枯れるなど農作物が被害を受けるようになる。
谷中村は江戸時代、この地域は洪水の多発地帯であり、しばしば大きな洪水に見舞われた しかしながら、洪水により肥沃な土壌がもたらされるので、農地は全く肥料を必要しないと言われ、洪水の起きない年の収穫は非常に大きかった。
足尾を流れ下る渡良瀬川。急流となって南へ向かい関東平野にいたり、東南東に向きを変えて平坦な農業地帯を潤し利根川に合流する。延長ほぼ100km。 台風が襲えば、足尾の廃石、山から崩れた岩石、坑内からの廃水は、渡良瀬川を一気に押し流される。関東平野に出て、流れが緩やかになると沈降して堆積する。川底が上がり濁水が堤防を越える。洪水被害が拡大した。その上、廃石と坑内廃水に含まれる銅などの重金属が「鉱毒」となって、農作物に壊滅的打撃を与えるようになった。渡良瀬川の漁獲も激減した。
谷中村より渡良瀬上流に有る平坦な両毛地区も谷中村程ではないが鉱毒の影響は有った。
谷中村はその堆積しやすい土地で顕著に被害が現れた。
当時の農商務大臣榎本武揚は、渡良瀬川下流の鉱毒被害地をはじめて視察し、その惨状に言葉を失ったという。
桑は枯れ、稲わらを焼くと青い炎が上がるほどだった。青い色は銅の存在を示す炎色反応である。
化学の知識があった榎本武揚は、鉱毒の深刻さを痛感し、政府は鉱毒調査委員会の設置を決定した。
そして、明治30年5月27 日に古河市兵衛に対し37 項目にわたる「鉱毒予防工事の命令書」を発した。
工事は予定通り「違背することなく」完成した。
沈殿池と堆積場は、建設後は一定の効果があったと思われる。とはいえ、すでに下流に運ばれた鉱毒を消し去るものではなく、鉱毒被害が軽減されたわけではなかった。洪水のたびに被害が広がった。
鉱毒予防工事は現在の価格に換算すると、1,500 億円近い臨時の出費という。政府の補助金はなく、古河市兵衛を頭とする一企業で賄うには、それまで巨額の利益を上げていたとはいえ、容易ではない。
さらに、渡良瀬川下流の浄化は膨大な資金を必要とする。
銅山を優先し1902年(明治35年)、政府は秘密裏に谷中村を廃村にし、渡良瀬川遊水池とする計画を立てた。鉱毒の沈澱と、渡良瀬川・利根川の洪水を防ぐことが目的であった。
一方、谷中村村民は、なぜあそこまで激しく抵抗したのだろうか。その反対闘争は、鉱毒を引き起こした製銅所(古河)への怒り、また「暴虐」なる国家権力・明治政府への抵抗という田中正造の理念に共鳴したのだろうか。
これについて、もちろん、その答えをもっている訳ではないが、渡良瀬遊水地の。事業は国直轄として33年度から着工されたが、用地は33年度から37年度にかけ、土地収用法を適用して買収が行われた。田の反当たりは約151円、畑は約201円、宅地は314円となっている。これに対し栃木県によって行われた谷中村土地買上は、堤内地の水田単価は反当たり36円、畑39円、宅地129円となっている。つまり利根川第一期改修に比べて水田で24%、畑で19%、宅地で41%としかなっていない。驚くべき程、安い単価である。谷中村は耕地としては条件の悪い低湿地域であるが、利根川第一期事業は千葉県・茨城県下の利根川最下流部であって、ここも低湿地帯である。谷中村がさらに格段と悪いということだろうか。
この買収価格を知って、谷中村住民が栃木県に対し、激しい不信感をもつのは当然だと推測される。
それも私企業による銅山経営による鉱毒によって、田畑を荒らされた後である。谷中村住民の強い反発・抵抗は、この買収価格が一つの重要な出発点であったと考えられる


写真で見ると渡良瀬遊水地は大型の沈殿池にも見える
第1調整池から第3調整池から構成される(第1調整池の旧谷中村中心に)

第1調整池

第1調整池の谷中湖。ウインドサーフィンを楽しむ人が見える

第2調整池

第3調整池

第1調整池と第2調整池の間を走る

第1調整池に注ぎこまれる渡良瀬川の水

遠くに小さく見える足尾山地。この向こうに足尾銅山(備前楯山)がある

今もこの渡良瀬遊水地(第1調整池)には110余年前の傷跡が眠ってる。
両毛地区から渡良瀬川を上り足尾銅山そして足尾山地を走り渡良瀬遊水地のツーリングは終わり帰路についた
(223km)

(足尾銅山と渡良瀬川1~2)
田中正造:再び注目される思想 足尾銅山事件と福島原発事故の類似性
電気が普及し始め、誰もが豊かになると期待した時代に、田中正造はなぜ現代文明を痛烈に批判したのか。
近代技術の粋を集めたはずの足尾銅山から流出した鉱毒は、渡良瀬川流域の土壌を汚染し、農作物や魚に甚大な被害を出した。政府は鉱毒を沈殿するため最下流地の谷中村を廃村し、遊水池とする計画を決定。正造は村民とともに最後まで抵抗したが、1906年に強制廃村された。明治初期に約2700人いた村民は、遠くは北海道に集団移住を余儀なくされた。
福島第1原発事故後の昨年3月下旬、京大原子炉実験研のメンバーとともに放射能汚染調査のために福島県飯舘村に入った菅井さんは「現代の谷中村ではないか」と感じたという。暮らしを豊かにするはずの文明が村民から日常を奪い、1年半たった今も多くの人が故郷に戻れない。
銅生産も、原発も「国策」として進められた。菅井さんは「日本は近代化を進めるために、何か問題があっても責任をとらない構造を作り、それが今も続く。鉱毒事件も原発事故も政府は責任をとらず、企業も『国策に沿った』と、責任をとらない。被害を受けるのは弱い立場の人々だ」と指摘する。毎日新聞 2012年09月17日 東京朝刊

国道から見る有越鉄索塔の脇の穴は坑道崩落で出来た穴 足尾の町の直ぐ上にある簀子橋堆積場


足尾をあとにして渡良瀬遊水地へ
県道15号粕尾峠を超えて鹿沼足尾線


渡良瀬遊水地広々とした所に出た(第1調整池)

渡良瀬遊水地 栃木の土木遺産より
渡良瀬遊水地は、栃木・群馬・埼玉・茨城の4県の県境にまたがる面積33k㎡(東京ドームの約700倍)の日本最大の遊水地です。
この遊水地は、明治23年(1890)の洪水以後、渡良瀬川沿岸は、足尾銅山の鉱毒被害を受け、大きな社会問題となり、鉱毒防止対策と利根川・渡良瀬川の治水を目的に、谷中村を移転し、明治43年(1910)から大正11年(1922)にかけて藤岡町の台地を開削して渡良瀬川を赤麻沼に流し、思川・巴波川の改修も行って築造されました。
現在のハート型の谷中湖(渡良瀬貯水池)は平成 2年(1990)渡良瀬遊水池総合開発事業によって建設したもので、洪水調節だけでなく、首都圏への都市用水の役割も果たしています。水面をわたる風や陽ざしに輝く緑は自然そのもので、さまざまなアウトドア・スポーツに格好の地となっています。
しかし、かってここには、日本の公害闘争の原点といわれる足尾銅山鉱毒事件の犠牲となった、谷中村廃村の歴史が刻み込まれています。役場跡・雷電神社・延命院など、秋になると寺院跡にはきまって赤い彼岸花が咲き、旧谷中村の史跡をとどめています。村の存続をめぐって、命をかけて闘いつづけた田中正造翁の遺徳がしのばれます。
今年、平成18年(2006)7月1日は、国が足尾銅山鉱毒問題の解決と洪水対策を目的に、谷中村周辺の遊水地化を進めるため、農民から土地を買収し、谷中村を藤岡町に強制合併され廃村となってから、ちょうど100年になります。当時の谷中村は370戸、約2500人が暮らす村の約半分は原野で、漁業なども盛んでありました。廃村後も16戸の村民は田中正造と村に残り抵抗を続けた歴史があります。1世紀が経て、見渡す限りヨシなどが生い茂り、貴重な動植物が数多く生育、生息し自然の宝庫となっていることから、渡良瀬遊水地を「ラムサール条約」に登録しようという動きもあります。
一方で国土交通省は、新たな治水事業を進めるため、第2調節池を掘削する計画をもっており、自然保護の観点から、計画に反対する声もあり、治水事業と自然保護が両立できる治水施設となることが望ましいと思っています。
足尾銅山は明治18年(1885)通洞坑、旧小滝坑を開坑し、産銅量は飛躍的に増加し、鉱毒の影響が顕著に現れ、1890年(明治23年)と1896年の大洪水により、足尾銅山から流れた土砂の堆積により稲が立ち枯れるなど農作物が被害を受けるようになる。
谷中村は江戸時代、この地域は洪水の多発地帯であり、しばしば大きな洪水に見舞われた しかしながら、洪水により肥沃な土壌がもたらされるので、農地は全く肥料を必要しないと言われ、洪水の起きない年の収穫は非常に大きかった。
足尾を流れ下る渡良瀬川。急流となって南へ向かい関東平野にいたり、東南東に向きを変えて平坦な農業地帯を潤し利根川に合流する。延長ほぼ100km。 台風が襲えば、足尾の廃石、山から崩れた岩石、坑内からの廃水は、渡良瀬川を一気に押し流される。関東平野に出て、流れが緩やかになると沈降して堆積する。川底が上がり濁水が堤防を越える。洪水被害が拡大した。その上、廃石と坑内廃水に含まれる銅などの重金属が「鉱毒」となって、農作物に壊滅的打撃を与えるようになった。渡良瀬川の漁獲も激減した。
谷中村より渡良瀬上流に有る平坦な両毛地区も谷中村程ではないが鉱毒の影響は有った。
谷中村はその堆積しやすい土地で顕著に被害が現れた。
当時の農商務大臣榎本武揚は、渡良瀬川下流の鉱毒被害地をはじめて視察し、その惨状に言葉を失ったという。
桑は枯れ、稲わらを焼くと青い炎が上がるほどだった。青い色は銅の存在を示す炎色反応である。
化学の知識があった榎本武揚は、鉱毒の深刻さを痛感し、政府は鉱毒調査委員会の設置を決定した。
そして、明治30年5月27 日に古河市兵衛に対し37 項目にわたる「鉱毒予防工事の命令書」を発した。
工事は予定通り「違背することなく」完成した。
沈殿池と堆積場は、建設後は一定の効果があったと思われる。とはいえ、すでに下流に運ばれた鉱毒を消し去るものではなく、鉱毒被害が軽減されたわけではなかった。洪水のたびに被害が広がった。
鉱毒予防工事は現在の価格に換算すると、1,500 億円近い臨時の出費という。政府の補助金はなく、古河市兵衛を頭とする一企業で賄うには、それまで巨額の利益を上げていたとはいえ、容易ではない。
さらに、渡良瀬川下流の浄化は膨大な資金を必要とする。
銅山を優先し1902年(明治35年)、政府は秘密裏に谷中村を廃村にし、渡良瀬川遊水池とする計画を立てた。鉱毒の沈澱と、渡良瀬川・利根川の洪水を防ぐことが目的であった。
一方、谷中村村民は、なぜあそこまで激しく抵抗したのだろうか。その反対闘争は、鉱毒を引き起こした製銅所(古河)への怒り、また「暴虐」なる国家権力・明治政府への抵抗という田中正造の理念に共鳴したのだろうか。
これについて、もちろん、その答えをもっている訳ではないが、渡良瀬遊水地の。事業は国直轄として33年度から着工されたが、用地は33年度から37年度にかけ、土地収用法を適用して買収が行われた。田の反当たりは約151円、畑は約201円、宅地は314円となっている。これに対し栃木県によって行われた谷中村土地買上は、堤内地の水田単価は反当たり36円、畑39円、宅地129円となっている。つまり利根川第一期改修に比べて水田で24%、畑で19%、宅地で41%としかなっていない。驚くべき程、安い単価である。谷中村は耕地としては条件の悪い低湿地域であるが、利根川第一期事業は千葉県・茨城県下の利根川最下流部であって、ここも低湿地帯である。谷中村がさらに格段と悪いということだろうか。
この買収価格を知って、谷中村住民が栃木県に対し、激しい不信感をもつのは当然だと推測される。
それも私企業による銅山経営による鉱毒によって、田畑を荒らされた後である。谷中村住民の強い反発・抵抗は、この買収価格が一つの重要な出発点であったと考えられる


写真で見ると渡良瀬遊水地は大型の沈殿池にも見える
第1調整池から第3調整池から構成される(第1調整池の旧谷中村中心に)

第1調整池


第1調整池の谷中湖。ウインドサーフィンを楽しむ人が見える


第2調整池

第3調整池

第1調整池と第2調整池の間を走る

第1調整池に注ぎこまれる渡良瀬川の水

遠くに小さく見える足尾山地。この向こうに足尾銅山(備前楯山)がある

今もこの渡良瀬遊水地(第1調整池)には110余年前の傷跡が眠ってる。
両毛地区から渡良瀬川を上り足尾銅山そして足尾山地を走り渡良瀬遊水地のツーリングは終わり帰路についた
(223km)

(足尾銅山と渡良瀬川1~2)
田中正造:再び注目される思想 足尾銅山事件と福島原発事故の類似性
電気が普及し始め、誰もが豊かになると期待した時代に、田中正造はなぜ現代文明を痛烈に批判したのか。
近代技術の粋を集めたはずの足尾銅山から流出した鉱毒は、渡良瀬川流域の土壌を汚染し、農作物や魚に甚大な被害を出した。政府は鉱毒を沈殿するため最下流地の谷中村を廃村し、遊水池とする計画を決定。正造は村民とともに最後まで抵抗したが、1906年に強制廃村された。明治初期に約2700人いた村民は、遠くは北海道に集団移住を余儀なくされた。
福島第1原発事故後の昨年3月下旬、京大原子炉実験研のメンバーとともに放射能汚染調査のために福島県飯舘村に入った菅井さんは「現代の谷中村ではないか」と感じたという。暮らしを豊かにするはずの文明が村民から日常を奪い、1年半たった今も多くの人が故郷に戻れない。
銅生産も、原発も「国策」として進められた。菅井さんは「日本は近代化を進めるために、何か問題があっても責任をとらない構造を作り、それが今も続く。鉱毒事件も原発事故も政府は責任をとらず、企業も『国策に沿った』と、責任をとらない。被害を受けるのは弱い立場の人々だ」と指摘する。毎日新聞 2012年09月17日 東京朝刊