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足尾山地(粕尾峠)を越え渡良瀬遊水地へ(足尾銅山と渡良瀬川2)

迂回ルート粕尾峠を走り渡良瀬遊水地へ向かう
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国道から見る有越鉄索塔の脇の穴は坑道崩落で出来た穴  足尾の町の直ぐ上にある簀子橋堆積場
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足尾をあとにして渡良瀬遊水地へ

県道15号粕尾峠を超えて鹿沼足尾線
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渡良瀬遊水地広々とした所に出た(第1調整池)
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渡良瀬遊水地 栃木の土木遺産より



渡良瀬遊水地は、栃木・群馬・埼玉・茨城の4県の県境にまたがる面積33k㎡(東京ドームの約700倍)の日本最大の遊水地です。
 この遊水地は、明治23年(1890)の洪水以後、渡良瀬川沿岸は、足尾銅山の鉱毒被害を受け、大きな社会問題となり、鉱毒防止対策と利根川・渡良瀬川の治水を目的に、谷中村を移転し、明治43年(1910)から大正11年(1922)にかけて藤岡町の台地を開削して渡良瀬川を赤麻沼に流し、思川・巴波川の改修も行って築造されました。
 現在のハート型の谷中湖(渡良瀬貯水池)は平成 2年(1990)渡良瀬遊水池総合開発事業によって建設したもので、洪水調節だけでなく、首都圏への都市用水の役割も果たしています。水面をわたる風や陽ざしに輝く緑は自然そのもので、さまざまなアウトドア・スポーツに格好の地となっています。
 しかし、かってここには、日本の公害闘争の原点といわれる足尾銅山鉱毒事件の犠牲となった、谷中村廃村の歴史が刻み込まれています。役場跡・雷電神社・延命院など、秋になると寺院跡にはきまって赤い彼岸花が咲き、旧谷中村の史跡をとどめています。村の存続をめぐって、命をかけて闘いつづけた田中正造翁の遺徳がしのばれます。
 今年、平成18年(2006)7月1日は、国が足尾銅山鉱毒問題の解決と洪水対策を目的に、谷中村周辺の遊水地化を進めるため、農民から土地を買収し、谷中村を藤岡町に強制合併され廃村となってから、ちょうど100年になります。当時の谷中村は370戸、約2500人が暮らす村の約半分は原野で、漁業なども盛んでありました。廃村後も16戸の村民は田中正造と村に残り抵抗を続けた歴史があります。1世紀が経て、見渡す限りヨシなどが生い茂り、貴重な動植物が数多く生育、生息し自然の宝庫となっていることから、渡良瀬遊水地を「ラムサール条約」に登録しようという動きもあります。
 一方で国土交通省は、新たな治水事業を進めるため、第2調節池を掘削する計画をもっており、自然保護の観点から、計画に反対する声もあり、治水事業と自然保護が両立できる治水施設となることが望ましいと思っています。



足尾銅山は明治18年(1885)通洞坑、旧小滝坑を開坑し、産銅量は飛躍的に増加し、鉱毒の影響が顕著に現れ、1890年(明治23年)と1896年の大洪水により、足尾銅山から流れた土砂の堆積により稲が立ち枯れるなど農作物が被害を受けるようになる。

谷中村は江戸時代、この地域は洪水の多発地帯であり、しばしば大きな洪水に見舞われた しかしながら、洪水により肥沃な土壌がもたらされるので、農地は全く肥料を必要しないと言われ、洪水の起きない年の収穫は非常に大きかった。
足尾を流れ下る渡良瀬川。急流となって南へ向かい関東平野にいたり、東南東に向きを変えて平坦な農業地帯を潤し利根川に合流する。延長ほぼ100km。 台風が襲えば、足尾の廃石、山から崩れた岩石、坑内からの廃水は、渡良瀬川を一気に押し流される。関東平野に出て、流れが緩やかになると沈降して堆積する。川底が上がり濁水が堤防を越える。洪水被害が拡大した。その上、廃石と坑内廃水に含まれる銅などの重金属が「鉱毒」となって、農作物に壊滅的打撃を与えるようになった。渡良瀬川の漁獲も激減した。

谷中村より渡良瀬上流に有る平坦な両毛地区も谷中村程ではないが鉱毒の影響は有った。
谷中村はその堆積しやすい土地で顕著に被害が現れた。

当時の農商務大臣榎本武揚は、渡良瀬川下流の鉱毒被害地をはじめて視察し、その惨状に言葉を失ったという。
桑は枯れ、稲わらを焼くと青い炎が上がるほどだった。青い色は銅の存在を示す炎色反応である。
化学の知識があった榎本武揚は、鉱毒の深刻さを痛感し、政府は鉱毒調査委員会の設置を決定した。
そして、明治30年5月27 日に古河市兵衛に対し37 項目にわたる「鉱毒予防工事の命令書」を発した。

工事は予定通り「違背することなく」完成した。
 沈殿池と堆積場は、建設後は一定の効果があったと思われる。とはいえ、すでに下流に運ばれた鉱毒を消し去るものではなく、鉱毒被害が軽減されたわけではなかった。洪水のたびに被害が広がった。
鉱毒予防工事は現在の価格に換算すると、1,500 億円近い臨時の出費という。政府の補助金はなく、古河市兵衛を頭とする一企業で賄うには、それまで巨額の利益を上げていたとはいえ、容易ではない。

さらに、渡良瀬川下流の浄化は膨大な資金を必要とする。
銅山を優先し1902年(明治35年)、政府は秘密裏に谷中村を廃村にし、渡良瀬川遊水池とする計画を立てた。鉱毒の沈澱と、渡良瀬川・利根川の洪水を防ぐことが目的であった。

一方、谷中村村民は、なぜあそこまで激しく抵抗したのだろうか。その反対闘争は、鉱毒を引き起こした製銅所(古河)への怒り、また「暴虐」なる国家権力・明治政府への抵抗という田中正造の理念に共鳴したのだろうか。
これについて、もちろん、その答えをもっている訳ではないが、渡良瀬遊水地の。事業は国直轄として33年度から着工されたが、用地は33年度から37年度にかけ、土地収用法を適用して買収が行われた。田の反当たりは約151円、畑は約201円、宅地は314円となっている。これに対し栃木県によって行われた谷中村土地買上は、堤内地の水田単価は反当たり36円、畑39円、宅地129円となっている。つまり利根川第一期改修に比べて水田で24%、畑で19%、宅地で41%としかなっていない。驚くべき程、安い単価である。谷中村は耕地としては条件の悪い低湿地域であるが、利根川第一期事業は千葉県・茨城県下の利根川最下流部であって、ここも低湿地帯である。谷中村がさらに格段と悪いということだろうか。
この買収価格を知って、谷中村住民が栃木県に対し、激しい不信感をもつのは当然だと推測される。
それも私企業による銅山経営による鉱毒によって、田畑を荒らされた後である。谷中村住民の強い反発・抵抗は、この買収価格が一つの重要な出発点であったと考えられる
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写真で見ると渡良瀬遊水地は大型の沈殿池にも見える
第1調整池から第3調整池から構成される(第1調整池の旧谷中村中心に)
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第1調整池
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第1調整池の谷中湖。ウインドサーフィンを楽しむ人が見える
DSC03821_R.jpg 第1調整池
第2調整池
第2調整池
第3調整池
第3調整池

第1調整池と第2調整池の間を走る
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第1調整池に注ぎこまれる渡良瀬川の水
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遠くに小さく見える足尾山地。この向こうに足尾銅山(備前楯山)がある
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今もこの渡良瀬遊水地(第1調整池)には110余年前の傷跡が眠ってる。

両毛地区から渡良瀬川を上り足尾銅山そして足尾山地を走り渡良瀬遊水地のツーリングは終わり帰路についた
(223km)
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(足尾銅山と渡良瀬川1~2)


田中正造:再び注目される思想 足尾銅山事件と福島原発事故の類似性

電気が普及し始め、誰もが豊かになると期待した時代に、田中正造はなぜ現代文明を痛烈に批判したのか。
近代技術の粋を集めたはずの足尾銅山から流出した鉱毒は、渡良瀬川流域の土壌を汚染し、農作物や魚に甚大な被害を出した。政府は鉱毒を沈殿するため最下流地の谷中村を廃村し、遊水池とする計画を決定。正造は村民とともに最後まで抵抗したが、1906年に強制廃村された。明治初期に約2700人いた村民は、遠くは北海道に集団移住を余儀なくされた。

 福島第1原発事故後の昨年3月下旬、京大原子炉実験研のメンバーとともに放射能汚染調査のために福島県飯舘村に入った菅井さんは「現代の谷中村ではないか」と感じたという。暮らしを豊かにするはずの文明が村民から日常を奪い、1年半たった今も多くの人が故郷に戻れない。

 銅生産も、原発も「国策」として進められた。菅井さんは「日本は近代化を進めるために、何か問題があっても責任をとらない構造を作り、それが今も続く。鉱毒事件も原発事故も政府は責任をとらず、企業も『国策に沿った』と、責任をとらない。被害を受けるのは弱い立場の人々だ」と指摘する。毎日新聞 2012年09月17日 東京朝刊


 





渡良瀬川を上り足尾銅山へ(足尾銅山と渡良瀬川1)

渡良瀬川は北関東を流れる利根川水系利根川支流の一級河川、流路延長107.6kmで利根川の支流。
栃木県日光市と群馬県沼田市との境にある皇海山(すかいさん)に源を発し、足尾山塊の水を集め草木ダムを経て南西に流れる。群馬県みどり市で南東に向きを変え、桐生市から足利市・太田市・佐野市・館林市など、おおむね群馬・栃木の県境付近(両毛地域)を流れる。栃木県栃木市藤岡地域で南に向きを変え、渡良瀬遊水地に入り巴波川(うずまがわ)、思川を併せる。茨城県と埼玉県の県境を南へ流れ、茨城県古河市と埼玉県加須市の境界で利根川に合流する。Wikipediaより

渡良瀬川周辺で19世紀後半明治初期から栃木県と群馬県で起きた日本初の公害事件(足尾銅山鉱毒事件)として影の歴史があり、今なお影として問題が残る

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この渡良瀬川に沿って、古くから街道と鉄道が通る。
江戸時代に切り開かれた街道は「銅(あかがね)街道」といわれ、現在は一般国道国道122号の愛称となっている。
鉄道の方は明治末から大正の初期にかけて開通したもので、最初は民鉄(古河)の「足尾鉄道」であったものが「国鉄足尾線」「JR足尾線」を経て、現在は第三セクターの「わたらせ渓谷鐵道」が経営する「わたらせ渓谷線」になっている。
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草木ダム手前の神戸駅舎
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神戸駅から県道345号線で草木ダムに向かう途中に有る廃線(トンネル)
草木ダム建設と同時に路線が水没する国鉄足尾線(現・わたらせ渓谷鐵道)の付け替え工事(草木トンネル建設)で草木湖を迂回するが、旧国鉄足尾線草木駅は水没する
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県道側から見上げる草木ダム
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ほぼ満水状態の草木湖
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足尾へ

国道122号線で足尾トンネルを抜ける直ぐに原堆積場跡が見える。国道沿いの白く長い壁は堆積場跡を補強したもの大きな堆積場跡と解る
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堆積場は、明治30年の鉱毒予防工事命令により大正6年に設置され昭和35年までの43年間使用され
今現存する簀子橋ダム使用以前、スライムは遠下の排泥処理場に運ばれ、ドレッジャーで水と泥を分離し、泥をバケットですくい、脱水乾燥して鉄索で原堆積場に搬出、堆積した。
原堆積場に初期堆積した排泥の一部は戦後再処理して収銅したことがあった。
昭和29年簀子橋ダムの使用開始とこれに伴う索道運搬の廃止で、
旧国鉄足尾線の左手車窓から見えるこの堆積場の活動は停止され、
その後の緑化の進展でこの写真の情景は見られなくなっている。
昭和20年代原堆積場_R
現在の原堆積場の様子
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足尾銅山には同様の堆積場が12か所あったが、現在は昭和35年に設置された簀子橋堆積場に集約される。

地震で土砂流出 鉛、基準の倍検出/足尾銅山


東日本大地震で、渡良瀬川では(足尾鉱毒で知られる) 旧古河鉱業の鉱泥堆積積が崩落するという問題も起きています。

◆鉛、基準の倍検出/足尾銅山、土砂流出
(朝日新聞栃木版 2011年03月13日)
http://mytown.asahi.com/tochigi/news.php?k_id=09000001103130002

11日の地震で、旧古河鉱業(現・古河機械金属)の足尾銅山で使用された日光市足尾町原向の源五郎沢堆積(たい・せき)場から渡良瀬川に土砂が流出、川水から環境基準の約2倍の鉛が検出されたことが12日わかった。約40キロ下流では、群馬県桐生市と太田市、みどり市の3市が水道用に取水している。同社は「取水地点までにダムや沢からの流入で十分希釈できる」(池部清彦・足尾事業所長)としているが、土砂の除去を急ぐとともに1日に2度の水質検査を続けるという。

現場はわたらせ渓谷鉄道の原向駅から下流に約400メートルの地点。土砂が樹木とともに地滑り状に約100メートルにわたって崩れ、同鉄道の線路をふさいで渡良瀬川に流出した。

堆積場は、銅選鉱で生じる沈殿物(スライム)などを廃棄する場所で、土砂は銅のほか鉛、亜鉛やカドミウムなどの有害物質を含む。足尾事業所が12日、下流2キロの農業用水取水口で水質検査したところ、基準値(0・01ppm)を上回る0・019ppmの鉛を検出した。他の物質は環境基準を下回っているという。現場は流出した土砂の水際が青白く濁っており、同事業所も「堆積場の物質が染み出ている」と認めている。

源五郎沢への廃棄は1943年に始まったが、58年に決壊して下流に鉱毒被害を出し、翌年から使用を停止していた。


小滝地区から備前楯山山頂へ

かつて賑わいを見せた小滝地区。今は微かな遺構を残し自然に帰って行く
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小滝の製錬所。文象川のそばにあったが、明治30年の鉱毒予防工事の命令を受けて直利橋製錬所に合体された。跡地は沈殿池となる
(明治28年以前撮影小野崎一徳写真帖より)
小滝精錬所明治28年
小滝地区の中心部。右手前には事務所・選鉱場が写っている。対岸に並んでいるのが社宅、画面左端中央の洋館が病院である。両岸を結ぶ画面中の馬立橋は今はない。
 (大正7年ごろ撮影小野崎一徳写真帖より)
小滝地区の中心部写真


備前楯山

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江戸時代の末期、足尾の銅生産は年間60 トンに満たない細々としたレベルに落ち込んでいた。
所有者だった明治政府は、調査の結果「見込みなし」の報告を得て、民間に払い下げる方針を固め
た。それに応じたのが古河市兵衛である。
それまでの鉱山業の経験から、足尾はモノになるという
カンが働いたのだという。明治10 年(1877 年)のことであった。

日本近代化の礎となった足尾銅山(備前楯山)



シェルパで備前楯山を周る(右写真は楯山坑道地図)
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買収後しばらくは、渋沢栄一、志賀直道との三者による共同経営だったが、ほどなく鉱山経営のプロでもあった古河市兵衛単独の事業となる。その時、古河市兵衛は46 歳。上昇志向の強いワンマン経営者としてスタートし、その後、没するまでの26 年間、足尾を日本一の鉱山に発展させることに精魂を傾けた。
発展のきっかけは、
明治14 年(1881 年)旧鷹之巣抗神保樋の直利と明治16 年(1883 年)本口抗横間歩大直利(大鉱脈)の発見である。

直利(なおり)とは品質が高くて鉱脈の巾が広い鉱石の意味。

明治10 年(1877 年)の年間生産量はわずかに47 トンだったが、10 年後には3千トンを超え、その5年後にはさらに倍増する勢いであった。
生産した銅はほとんどが輸出に回された。当時、銅は世界市場において高値で取引され、欧米を中心に
送電・電信・電話網建設が急ピッチで進み、電線製造用の銅の需要は限りなく大きかった。
また、砲弾の先端には銅合金が不可欠だったことなど、軍事の需要も大きかった。
一方、日本の国内需要はまだ少ない。そのため明治時代の日本は、現在のような「資源小国」ではなく、銅の
世界市場で5%を占める「資源大国」だったのだ。
銅は生糸・絹製品に次ぐ第二の輸出品の位置を占めていた。日清戦争(1894 年8月〜1895 年3月)、
日露戦争(1904 年2月〜1905 年9月)の装備は、銅輸出の収入によって整えたという。
外貨を獲得して軍備を充実させる。帝国主義時代の列強の最後尾に連なった新興国日本の、銅鉱業は戦略産業であった。
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また、古河市兵衛のキーパーソンとして(渋沢栄一)が大いに貢献してる
渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の養蚕と藍玉生産を営む豪農の家に生まれた。激動の時代である。
江戸に出て尊王攘夷運動に参加、その後一橋慶喜に仕え、慶応3年(1867 年)にフランスに留学する。
明治維新の直前の留学で、そのため江戸から東京への政変を目撃することは叶わなかったが、
フランス滞在期間に、明治新政府の経済政策「殖産興業」の具体策を練ることに専念することができた。
明治2年(1869 年)に帰国、大蔵省に出仕する。そこで租税関係の仕事を通じて、小野組の番頭格だった古河市兵衛との縁ができる。
二人は相性が良かったということだろうか、肝胆相照らす仲になる。
二人の間がとりわけ緊密になった有名なエピソードがある。
明治6年(1873 年)は、混迷を極めた年であった。徴兵令、地租改正が相次いで布告され、藩閥政府に不満を持つ士族と農民の一揆が全国で続発した。西郷隆盛の征韓論が敗れ、西郷支持派が政府から去った。
その混迷の中で、渋沢栄一は日本初の民間銀行「第一国立銀行」を設立し、初代総監役に就任した。
国立という名称がついているが、国家規模のという意味で、民間銀行である。
また、総監役とはCEO のことである。 銀行は順調にスタートしたかにみえたが、たちまち危機を迎える。政府の金融政策の突然の変更で、貸出先の三井組・小野組がピンチに陥る。
その煽りで銀行存続が危うくなった。破産した小野組に対する貸出金の過半は、番頭の古河市兵衛の名義になっている。進退極まった古河市兵衛だったが、渋沢栄一の銀行を救う決心をした。
自分の全財産を投げ出して穴埋めに提供したのである。
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足尾の急速な発展のためには、第一に迅速な人材育成が必要である。 渋沢栄一は、まず欧米から技術者を呼び寄せて雇うことを薦めた。
期限付きで雇った外国人からすでに完成した技術を学ぶ。次には、学んだ若い技術者が指導者になって同僚に広める。さらに、将来性のありそうな学生や技術者候補を短期留学生として欧米に派遣し、学んだ知識を帰国後すぐ
に現場で活用する。
古河市兵衛は渋沢栄一のアドバイスに従った。
早速、若くて優秀な技術者に指示して、系列の鉱山に来ていた外国人に学ばせ、欧米に多数の留学生を派遣し、帰国すれば重用した。このやり方が成功したのは、日本人の若者に知識を吸収し応用できる潜在力があったからなのは、言うまでもない。明治23 年(1890 年)に、足尾に日本初の水力発電所を建設した山口喜三郎もその一人だった。
(間藤発電所 明治28年以前の撮影。小野崎一徳写真帖より)
間藤発電所の外観。明治28年以前の撮影。
(間藤発電所の内部。撮影は明治28年以前の撮影。小野崎一徳写真帖より)
間藤発電所の内部。撮影は明治28年以前
足尾地区の水力発電所一覧。(高岩安太郎『足尾銅山景況一班』より)
足尾地区の水力発電所一覧。(高岩安太郎『足尾銅山景況一班』より)

遺構として残る間藤発電所
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第二に薦めたのは、最新技術の国産化である。 留学生にはアンテナの役割もあった。欧米の新技術情報を収集するアンテナである。そして、銅の生産に役立ちそうな新しい装置、新しい機械をほとんど時差なく導入した。
しかし、輸入品に依存はしない。導入した製品の技術を日本人に合わせるという名目で改良改善して国産化し同時に性能を高める。

削岩機

1866年、スウェーデンのノーベルが爆薬を発明したのを契機に、米国のバーリーが先のファウルの特許を買い取って改良し、米国で最初の空気打撃式鑿岩機の実用化に成功した。1871年にはサンドビック社やインガソル社も鑿岩機の製造を開始するなど、欧米各国で実用化が加速した。
 日本で最初に鑿岩機を使用したのは官営佐渡金山である。明治9年(1876)にインガソル社のロックドリルが採用されたといわれている。
 明治15年には、官営阿仁鉱山でシュラム式鑿岩機が使用された。古河市兵衛が阿仁鉱山の払い下げを受けることにより、明治17年末ごろには、この鑿岩機が足尾銅山にも持ち込まれることになる。
 手持ち式鑿岩機が開発されたのは明治34年、フロットマン社が最初であり、サンドビック社やインガソル社がそれに続いた。
 しかし、外国製の手持ち式は大きいので、日本人の体格に適した小型のものが足尾工作課主任・川原崎道之助によって開発された。外国の機械を改良し、性能を向上させつつ小型化するという日本人の製作風土というものは、この時代にもあったことがわかる。この鑿岩機は、製造されたのが大正3年(1904)であったことから「足尾式3番型」と名づけられた。以後も、「足尾式」なるものの改良は続けられて、現在でも古河の系列会社から世界に向けて製造・販売されている。
 足尾銅山は、鑿岩機においても先駆けの地であった。
大正時代、足尾銅山の採掘風景
大正時代、足尾銅山の採掘風景「足尾式」と呼ばれた手持ち式の鑿岩機

山に囲まれた足尾内外の輸送に効率の良い鉄索ネットワーク、トロッコ輸送網

電気を用いた電気機関車を最初に走らせたのはドイツ人のシーメンスで、1879年、ベルリンの博覧会場でのことという。
 日本では、明治23年、東京・上野で開かれた第3回内国勧業博覧会に藤岡市助によって出品された。藤岡は、米国のJ.G.ブリル社の電車を購入し、創立間もない東京電燈会社の目玉商品として展示したものである。
 足尾の間藤水力発電所が稼動するのは明治23年12月で、翌24年には構内電車が走った。その型式は不明だが、おそらくシーメンス社製のものであろう。
 明治26年には、足尾銅山工作課製の国産電気機関車が本山事務所から古河橋までの800メートルを軌道610ミリで動き、以後、足尾式電車として製作された。この電車は米国のG.E社製のコピーだったといわれるもの。
 坑内の鉱石運搬用にトロリー式電気機関車が動き出すのは、明治30年である。農商務省鉱山局『鉱山発達史』によると、31年には、構内電気鉄道として25馬力電気車3台が足尾銅山にあることが記録されている。ちなみに、東京で電車が運転されるのは明治36年。足尾の10年後で、区間は品川ー新橋間だった。

製錬所構内を走る足尾式電気機関車。明治25年ごろ
製錬所構内を走る足尾式電気機関車明治25年

通洞抗口のトロリー坑内電車。
通洞抗口のトロリー坑内電車
足尾のような山の中では幹線道路を建設することが容易ではなく、まして軌道を敷設することがむずかしい地域が多かった。このような地域間の輸送には架空索道(空中ケーブル)に頼らざるを得ず、足尾の人々が「鉄索」と呼ぶ架空索道が縦横にはりめぐらされることになる。
 明治23年、日本初の本格的架空索道が、日光・細尾ー足尾・地蔵坂間に米国のハリジーが発明した方式を導入して敷設された。それ以降、ホドソン式・ブライヘルト式など世界を代表する架空索道が採用されて、足尾はあたかも索道の国際見本市のような状況を呈したのである。
こうしたなか、足尾銅山工作課の玉村勇助は、ブライヘルト式を改良して玉村式鉄索を設計し、第10索道(小滝)・第2索道(根利山)を架設した。
彼は最終的には第15索道までつくり、古河退社後は東京玉村工務店を設立して、国内に広く索道を普及させた。
なお、明治から大正まで足尾で稼動した索道は、およそ26地域、全長45キロといわれている。

足尾の架空索道。明治36~38年の撮影。
足尾の架空索道。明治36~38年の撮影

架空索道用のロープの運搬。鉄索に使われる重いロープは、このように人が背負って運んでいた。隊列を乱さずに険しい山道を行くのは大変な作業だったろう。
(明治末期撮影)
架空索道用のロープの運搬

精錬

直利橋製錬所内のベッセマー転炉。ここでは2台が見える。第1号は米国からの輸入だが、2台目からは国産化された。
(明治26年以降撮影)
直利橋製錬所のベッセマー転炉写真

ベッセマー転炉(製銅炉)を敷設した時の記念写真だろうか。明治26年に第1号が建設され、以後、4台が増設されているが、その増設時のものと思われる。
(明治~大正期撮影)
ベッセマー転炉(製銅炉)
ベッセマー転炉など、最初は輸入するが、たちまち国産化して活用した。 ベッセマー転炉は、銅精錬の工程でいちばんのカギとなる技術である。足尾銅山には明治26 年(1893 年)日本で初めて導入された。フランスで
製錬を学んだ塩谷門之助を、改めて2年間アメリカに留学させ、帰国後すぐに完成させた。不純物の残る溶けた銅を入れ、円形の炉を回転させながら化学反応を促進する。転炉は工程にかかる時間を革命的に短縮させて生産性を上げた。転炉導入前は32 日間かかった工程がたった2日間になったのである。

ベッセマー転炉は、稼働中の様子から「火吹きだるま」の異名で呼ばれていた。その「火吹きだるま」が設置されていた製錬所は、残念ながら、つい最近完全に解体されてしまった。
2008年撮影の精錬所跡(クリックすると大きくなります
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かつて栄華を誇った精錬所は取り壊され、赤く錆び付いた転炉が一基佇み衰勢を物語ってる
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跡地に残る転炉(昭和30年代の転炉だろうか?
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昭和36年に大型転炉が導入された。
組立の進行を収めた写真(足尾銅山写真帖 新井常雄氏)から
転炉の転炉前は従来オープン型だったが、新型炉で開閉式の扉を付けてた
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操業が終わった施設の、原状復帰の義務が鉱業法に定められていることからの措置である。
しかし、産業遺産として保存する道もあったはずである。
もちろん、保存には経費がかかる。他にも問題は山積だ。それでも産業遺産を地上から抹消してしまうのは、この国の文化の底の浅さというべきか、あまりにも情けない。

ともあれ、足尾銅山には多数の「初」技術が導入され、急成長につながった。古河市兵衛がワンマン経営者だったこともプラスした。官僚的な長時間の会議なしに、「よし」と言えばすべてが動く。
背景には、経営者としての迅速な決断と行動があった。

活気に溢れるところには、自然に人材が集まる。
好循環が生まれる。事実、東京帝国大学を筆頭に六大学を卒業した若者が足尾に参集した。外国からの見学者も来るようになった。銅山の盛業ぶりの分かる記念絵葉書が出回った。足尾は湧き返り、飲食街や花街が栄えた。劇場も出来た。流行の先端が山峡の街に珍しくなかった。いま足尾の人口は3,000 人ほどだが、最盛期には4万人以上に達していた。「日本で賑やかなのは、東京、横浜、足尾」との評判も高かった。
渋沢栄一は、古河市兵衛のリーダーシップの下、日本の「殖産興業」がスピーディーに具現化して行く場として、足尾を見ていたのではないだろうか。


しかし、足尾の近代化がスピーディーだった陰で、大規模で深刻な環境破壊が足尾地域をはるかに超える規模で拡大した。足尾銅山が「公害の原点」とされる所以である。 まず、足尾銅山周辺の山々の森林の消滅から始まった。

銅鉱石を求めて坑道を掘る。総延長1,200km に及んだという坑道の、落盤を防ぐ支柱として大量の木材を伐採して使用した。製錬に木炭が必要だった。「銅1トンを生産するのに木炭4トン、そのために木100 本が必要」という。機械の動力となる蒸気機関の燃料も薪だった。足尾の町の人口が増えるにつれて、住宅の建設、家具用品の製
造、毎日の煮炊きと暖房用の薪や炭が要る。過剰な伐採のために、緑の山々はたちまち丸裸になった。

そこに追い打ちをかけたのが煙害だった。足尾の鉱石は黄銅鉱である。製錬の時に亜硫酸ガスが排出される。
それが丸裸の山に酸性雨となって降る。おまけに廃煙の中には毒性の強い亜ヒ酸も含まれる。
下草までが枯れ果てた。山火事がそれに加わる。植物の覆いが失われむき出しになった土壌は、雨になるとたちまち洗い流されてしまう。急峻な山地はわずかな期間に岩山へと変貌した。少し強い雨にでもなると、土砂崩れが起きる。大量の岩石が土石流となって流れ落ちるようになった。
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鉱石に含まれる銅の純度が1%なら、残る99%が廃石になる。銅の生産量の伸びにともない、廃石(ズリ)は100 倍以上のペースで増加した。鉱脈に達するところまで坑道を掘れば、それも廃石に加わる。足尾銅山では閉山までの360 年余に82万トンの銅を生産した。その数値から推定すると、2億トンの廃石が出たとみられる。廃石は谷間に捨てられ、あるいは積み上げられて山になった。
廃石と鉱滓(カラミ)の捨て場所
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足尾を流れ下る渡良瀬川。急流となって南へ向かい関東平野にいたり、東南東に向きを変えて平坦な農業地帯を潤し利根川に合流する。延長ほぼ100km。 台風が襲えば、足尾の廃石、山から崩れた岩石、坑内からの廃水は、渡良瀬川を一気に押し流される。関東平野に出て、流れが緩やかになると沈降して堆積する。川底が上がり濁水が堤防を越える。洪水被害が拡大した。その上、廃石と坑内廃水に含まれる銅などの重金属が「鉱毒」となって、農
作物に壊滅的打撃を与えるようになった。渡良瀬川の漁獲も激減した。
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渡良瀬川下流で被害を受けた農民は30 万人にのぼった。国会議員の田中正造をリーダーとして、「農をとるのか、鉱をとるのか」を迫る大規模な公害紛争に発展する。

足尾銅山が生産を優先し、環境破壊に無関心だったのだろうか。
 鉱毒事件のために足尾銅山は「公害の原点」という固定化されたイメージがあるが、環境破壊が鉱業の継続を不可能にするという認識がなかったわけではない。燃料に薪を大量に消費する蒸気機関に代えるべく、水力発電をいち早く導入したことなどは、その証拠である。しかし、生産の急増に力を入れたのに比べて対策が遅れたことは間違いない。伐採するばかりで造林を怠った事実、「48km以内で煙害の被害を受けないところはない」と報告された操業の実態、野火対策の不備などが明らかになり、ついに明治30 年(1897 年)、政府は足尾銅山の鉱毒被害を認めることになった。

農商務大臣榎本武揚は、渡良瀬川下流の鉱毒被害地をはじめて視察し、その惨状に言葉を失ったという。
桑は枯れ、稲わらを焼くと青い炎が上がるほどだった。青い色は銅の存在を示す炎色反応である。
化学の知識があった榎本武揚は、鉱毒の深刻さを痛感し、政府は鉱毒調査委員会の設置を決定した。
そして、5月27 日に古河市兵衛に対し37 項目にわたる「鉱毒予防工事の命令書」を発した。

主要な工事は3分野。坑内からの排水を導き中和する沈殿池の建設、廃石・カラミ(製錬廃棄物)・粉鉱の流失防止設備付き堆積場の建設、製錬廃ガスの除去装置の建設。7日以内に工事に着手し、最長150 日以内を期限とし、命令に違背するときは「直チニ鉱業ヲ停止スヘシ」と厳しかった。

本山坑の坑内水処理の施設として、松木川沿いの向間藤(むかいまとう)で建造中の沈殿池。予防工事では、沈殿池・濾過池を、本山・通洞・小滝の各抗口に建設することが命じられた。
(明治30年7月3日撮影)
本山坑の坑内水処理の施設

人海戦術で進められた向間藤における沈殿池の建造風景。沈殿池と濾過池では、坑内水に含まれる銅鉱石類の沈殿除去、硫酸銅・硫酸の中和除去を目的とした。
(明治30年7月8日撮影)
人海戦術で進められた向間藤
築造中の脱硫塔。
(明治30年8月25日撮影)
築造中の脱硫塔。
銅山は40 日間操業を停止し、工事のために他の鉱山からの応援を呼び寄せ、足尾町民は1戸から1人が手弁当で参加した。5割増の高賃金で人出を集めたがそれでも不足した。1日に多い時は6〜7千人、延べ58 万人が作業し、支払った賃金は合計47 万円に上った。さらに材料として、レンガ312 万丁、セメント1万5千樽、輸送費と
合わせて42 万円、各地から集まった人々の生活物資として、米4,400 石、味噌2,500 貫、醤油150石、
酒1,200 石、草履80 万足、蓑6,500 枚、金額にして15 万円。以上合わせて104 万円に達した。
一方、銅生産の落ち込みによる収入減は40 万円であった。現在の価格に換算すると、1,500 億円近い臨時の出費という。政府の補助金はなく、古河市兵衛を頭とする一企業で賄うには、それまで巨額の利益を上げていたとはいえ、容易ではない。 そこに資金を融資したのは渋沢栄一である。工事は経営上の利益をもたらすものではなかったが、世の中のために必要な投資とした。融資の便宜を図っただけではなく、工事の必要性を説いたところに、渋沢栄一の思想と懐の深さがうかがえる。


工事は予定通り「違背することなく」完成した。だが、予防工事に効果はあったのだろうか。
 沈殿池と堆積場は、建設後は一定の効果があったと思われる。とはいえ、すでに下流に運ばれた鉱毒を消し去るものではなく、鉱毒被害が軽減されたわけではなかった。洪水のたびに被害が広がった。
洪水対策名目の公共事業によって、明治40 年(1907 年)、利根川合流点に近い谷中村は、田中正造らの抵抗もむなしく、鉱毒もろとも遊水地の底に沈むことになり、滅亡した。

最も効果のなかったのが、技術的に未知のままに建設を強行した脱硫塔である。排煙の中から硫黄を除く脱硫の技術そのものが、世界のどこにもまだ存在していなかった。
 それでも硫酸製造技術を応用して、亜硫酸ガスの除去を試みた。製錬所の数ある炉からの廃煙をすべてレンガ造りの総延長566m の煙道に集める。それで廃煙を山腹の脱硫塔へ導き、石灰乳剤のシャワーで洗う。廃煙中の亜硫酸ガスが石灰と反応して炭酸カルシウムになるはずで、それで脱硫ができればいい。最終的には、廃煙は山の上の
大煙突から放出する……。しかし、期待は裏切られ、脱硫効果はほとんど皆無に等しかった。多少の効果はあっても、生産の伸びが効果を上回った。
 山上の大煙突からの廃煙は風に運ばれ渡良瀬川上流の松木村方面に流れるようになった。そのため、松木村の樹木、草木が枯死し、茫々たる赤土の原と化した。養蚕と山野の恵みで豊かな村だったのが一変、村人は生業を失い、先祖からの土地を捨てざるを得なくなった。ついに明治34年(1901年)、残っていた25 戸が示談金4万円を受け取って村を去り、翌年廃村になった。
こうして、渡良瀬川の上流と下流で、二つの村が滅亡したのだった。

渋沢栄一は「義利両全」を唱えた。青淵という雅号で、多数の書にも遺している。
 企業の活動は、利益と正義(倫理)の両方が実現されるべきという意味である。
「道徳経済合一」の考えを、意気投合した陽明学者三島中洲の「義利合一説」を聞き、発展させて「義利両全」という言葉に集約したという。渋沢栄一が晩年に財界の大御所として、また教育者としても尊敬を集めていたのは、その思想の重さにあると言ってよい。
日本の資本主義の基盤を築いた実業家であったが、渋沢栄一の目標とした資本主義は、利益を追求するだけではなかったといえる。

1991 年は東西冷戦が終結した年である。アメリカの資本主義が社会主義に勝利したわけではなく、ソ連の官僚主義が勝手に瓦解したというのが実情に近い。

ソ連の内部崩壊を告げる事故が起きている。
1986 年のチェルノブイリ原発事故である。自動車が安全に走るためには、自動車に欠陥がないこと、道路設備が整っていること、運転手が安全運転するなど、要するに機械の性能、システム・制度、人間の三要素が揃っていなければならない。三要素は原発にも共通に言えることであるが、チェルノブイリ事故で明らかになったのは、そのどれもがソ連国内でまともに機能していないという実態であった。ソ連の自壊の程度が全世界に暴露された事故だったのだ。

しかし、なぜか東西冷戦の終結は、アメリカの勝利、アメリカ型資本主義の勝利と受け止められた。規制緩和と競争、できるだけ市場に任せるという新自由主義経済が、グローバル・スタンダードということになり、日本では「小泉・竹中改革」で頂点に達する。それは、渋沢栄一の「義利両全」、の対極にある弱肉強食資本主義といってよいだろう。そしていま、経済格差が社会不安をもたらし、破綻したマネーゲームの結末に、日本だけではなく全世界が病んでいる。

400 年の教訓


フランスで「殖産興業」の理論を学んだ渋沢栄一は、足尾銅山を「殖産興業」を先導するシンボルとして、古河市兵衛に協力を惜しまなかった。
頭の中に描いた「殖産興業」が具現化されて行くことに、きっとよろこびを感じていただろう。
 しかし、「光」とともに「影」が生じる。足尾銅山の成功という「光」が輝かしかっただけに、環境破壊、それに連なる人間への健康被害、農村共同体の崩壊という惨禍の「影」は、一層深いものであった。
 足尾銅山の「利(益)」が上がれば上がるほど「(正)義」を欠いてしまう。その現実に、渋沢栄一は戸惑い、そして思いをはせたに違いない。
 「利」を求めるのは良い、しかし暴走してはならない。真の「殖産興業」は「利」のみを追求するものであってはならない。「義利両全」は、渋沢栄一が足尾銅山の現実を直視し、熟慮を重ねた上ではっきりと確認した資本主義の在り方に関する結論なのではないだろうか。


それはまた、足尾銅山開山400 年の現代に遺された貴重な教訓だろう。


栄枯盛衰 光と影

足尾線廃線区間■(間藤-足尾本山)

国道122号線で日光へ向かう途中、今は人口三千人に満たない小さな町(足尾)を通過する。
かつて名実ともに日本一の「一大産業都市/鉱山都市」夜間人口3万人を超え昼間人口は7万を超えた足尾町で
現在は日光市に統合された。


足尾銅山夜明け前

1550年(天文19年)に発見と伝えられているが、本格的に採掘が開始されたのは江戸幕府成立後の慶長15年(1610年)とされる。当時、足尾銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と言われるような発展を見せ、当時の代表的な通貨である寛永通宝が鋳造されたこともある。江戸時代にはピーク時で年間1,200トンもの銅を産出していた。その後、乱堀により採掘量が極度に減少する。さらに、銅を作るための燃料や還元剤に大量の薪や木炭を必要としたから、近隣の山は荒れ禿山となり、その結果発生した洪水により足尾の町は大きな被害こうむり、銅の採掘も大きな打撃を受けた。
幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた。

江戸期の採掘
まず、地表に出ている黄銅鉱(露頭)を探し、露頭が見当たればノミと槌で掘って行き銅品位の高い鉱石だけを掘り取る。いずれも人力で抗夫が狭い悪条件下の空間で作業をした。それゆえ地表に近い鉱脈だけしか採取できなかった。


足尾銅山のあけぼの

古河市兵衛のもとに足尾銅山譲渡の話が持込まれたのは明治9年の末である。
江戸幕府が崩壊し明治になると、政府は殖産のため鉱山のすべてを接収して官営にした。足尾銅山も工部省のもとで調査が行なわれたが、明治5年、民営移行の方針が出て、疲弊した状態のまま銅山師に払い下げられた。多くの銅山師が挑戦するが好転がみられず、なかば見捨てられた状態で、このころは福田欣一が経営していた。しかし産銅は低迷を続け、福田が経営資金に窮した結果の譲渡話しだった。それを市兵衛が手に入れたのである。
当時、足尾鉱区は地表に蜂の巣のように掘り穴があり、廃山同然であった。
明治14年には運良く旧坑・鷹の巣抗で直利を掘り当て、15年には本口坑の開坑にとりかかり、16年に大鉱脈を発見した。「横間歩」と呼ばれるこの大直利は足尾銅山隆盛のもととなるものであった。明治18年には阿仁・院内両鉱山を政府から払い下げてもらい、そこにあった近代設備と人材を、草倉鉱山のものに加えて足尾に注ぎ込んだ。鉱石の産出量が増加するなか、明治17年には直利橋製錬所を新設し、18年には本山・有木坑、さらに小滝坑の開鑿を開始する。
銅生産量も明治10年には46トンにすぎなかったものが、17年には約3000トンと日本一の産銅量となり、18年には4000トン超えるにいたったのである。


足尾銅山光輝き

鉱山事業は産業の原点であり、土木・建築・機械・電機・化学と現在は多角化した技術領域を当時の鉱山技術者はすべて総括していた。足尾銅山のみならず、当時の各鉱山からは現在の「技術立国」につながる技術が生長して、新しい企業が育ったのである。
足尾銅山の系譜からは、古河電工・富士電機・富士通・横浜ゴム・日軽金などが誕生した。人脈からは、東芝・日立・ソニーにつながる、それも単に技術陣だけでなく多くの経営陣が巣立っている。(小野崎一徳写真帖より抜粋)


連休最終日(足尾銅山探訪)の予定が足尾の歴史資料調査で終わってしまう
次回は鷹の巣抗にでも行ってみよう(予定)
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足尾銅山 影の遺産

一般住宅の中にゴミ屋敷が有ると仮定しよう。
簀子橋堆積場は公共の中のゴミ屋敷そのものだと思う

日本の近代化や産業発展に大きく寄与した反面、渡良瀬川への鉱毒問題や銅採掘での精錬所の煙害など、「日本の公害の原点」と呼ばれた場所。

しかし現代終わった公害問題では無い、いまも続いてる公害は此処にあり眠っている


昔、多くの住民を苦しめた足尾銅山の鉱毒が、その下流に位置する渡良瀬川の漂流水を太田市は30%買って 我々はその水を飲んでいる

足尾銅山繁栄の下
1234kmの坑道が掘られ、今は雨水などがそのトンネルに染み渡り
水質の2次公害を引き起こす原因にもなってる

地元議員会の視察で足尾の山元調査等行われているがすべて
お膳立てが揃った上での調査である

我々一般人はめったに見る事の出来ない所でもある
写真撮影が古河社員に見つかれば敷地内で強制没収に逢うのは必須の事



簀子橋堆積場の写真。汚染水(坑道雨水)を中性化した際、混入する土壌を広大な上流のダムに堆積させる
その後、中才浄水場浄場にて渡良瀬川に放出すると思われる

↓クリックで大きくなります 驚く程の大きさの人口湖 赤く不気味なヘドロが見える
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一般には見せるはずもないこの看板 政治的匂いがする
(坑内廃石等でこの巨大なダムは作られてる)

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この写真意外や重要?
堆積場のオーバーフローした水を直接渡良瀬川の支流渋川に流してるのか?!
今でも渋川は魚の居ない川である

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このエゴ親父がある議員さんのブログに送った内容
まだ返事コメントは無いhttp://blog.ota-city.net/?eid=444157#sequel

視察ご苦労様でした
今、尚続いてる公害問題と認識してます
特に沈殿湖(簀子橋堆積場)です
今現在管理は古河機械金属株式会社が管理し、管理状態は古河側のみで危機管理がキチンと成されてるかが疑問です

何故ならば一般公開せず立入り禁止状態
まさに閉鎖状態です
水質検査に於いてもリアルタイムではありません事前に検査日が解かってしまうのでは?

推測にしかなりませんが大雨の後など処理能力以上の排水を強いられるでは無いでしょうか
視察も前もっての連絡ならいくらでも操作可能でしょう

何時でも一般に公開出来説明できる形が望ましいのでは?
危機管理の問題です。

先日私は不本意ながら(自己責任で)立入り写真に収めましたが没収されました

没収とはどんな理由があるのでしょう?
不思議です

立入りに対しての注意なら解かりますが・・・

まったく我々一般人には説明も無く
今時珍しく闇です

我々もそこに危機が有る事を認識しなければ安全はとは言えないでしょう

| kazu親父 | 2008/06/28 5:50 PM |


偏屈親父の疑問で多く書き切れません
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オットセイ岩を尋ねる

今朝4時前に目ざめスーパーシェルパで足尾町に有るオットセイ岩をたずねる

1958年5月30日、足尾町オットセイ岩付近にある源五郎沢堆積場が崩壊
崩れた鉱石くずが渡良瀬川を流れ、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた
群馬県山田郡毛里田村(現在の太田市毛里田)の田畑に流れ込んだ

足尾町内には今も堆積場が多くあり、
渡良瀬川の水質監視ポイントがオットセイ岩付近
これから下流は銅山の堆積場は有りません

小一時間オットセイ岩と一緒に渡良瀬の川の流れを見ながら・・・・・

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このオットセイ岩にまつわる出来事より現代までの足尾の歴史を

1958年 源五郎沢堆積場決壊。待矢場両堰に鉱毒が流入。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会成立。
1961年 銅・鉛・亜鉛の貿易自由化決定 これ以降、国内鉱山は次第に経営難となる。
1966年 天狗沢堆積場が決壊。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会、古河鉱業に抗議。
1968年 政府の水質審議会、渡良瀬川の銅濃度基準を0.06ppmで決定。
1970年 桐生市水道局、渡良瀬川から基準値を超える砒素を検出。
1971年 太田市毛里田地区の米からカドミウムが検出される。
1972年 太田市毛里田地区の米、土壌のカドミウム汚染は、足尾銅山が原因と群馬県が断定(古河鉱業は否認)。
1973年 足尾銅山閉山、製錬事業は継続される。
1974年 毛里田鉱毒根絶期成同盟会と、15億5,000万円で和解が成立。
1976年 草木ダム竣工。
1980年 足尾町・足尾銅山観光がオープン。
1989年 JR足尾線(現わたらせ渓谷鉄道)が貨物廃止。足尾での製錬事業が事実上休止状態になった。
2002年 環境基準の強化により、本山製錬所での廃棄物焼却事業を休止。
2006年 足尾警察署廃止。足尾交番に。
2007年 足尾銅山を「負の遺産」として世界遺産暫定リスト記載に向け文化庁に要望書を提出。日本の地質百選に選定。経済産業省が取りまとめた近代化産業遺産群33に「足尾銅山関連遺産」として認定される。
2008年 通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の史跡に指定。

オットセイ岩を離れ古河管理の原堆積場を見る

原堆積場は大正6年に設置され、昭和35年までの45年間にわたって使用された
坑内から掘り出された廃石や、砕いた廃泥を堆積しておく場所
崩壊した源五郎沢堆積場のすぐ近く・・・堆積後、木や草が生える為に土が盛られてる?

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122号線を細尾峠に向かい峠を」越えるとそこには対照的な日光が有る

さあ、気が重くならぬ間にシェルパと風に戯れながら帰ろう

朝7時の帰宅だった

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坑道探検

足尾最後の坑道 通洞坑
入場料700円 足尾銅山観光がオープンした頃、以来2回目。
平日の夕刻で入場者は2~3人
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小さなトロッコ電車に乗り通洞坑へ

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通洞坑口からは、電車坑道レールが奥へ6.5km続き、途中から様々な所へ坑道が続き 
坑道全体は上下に延びながら何層にも繋がっていて、上に約600m、下に約540mもの
高低差を持ち また全部の坑道をつなぎ合わせると「総延長は1234km」にもなります

トロッコで100m位中に入った所で降りる

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後は歩いて見学。

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一人歩く・・・結構薄気味悪い

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鉄錆地帯を抜け

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人形が出てくる
江戸時代の様子

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近代の様子

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まあ、こんな感じで資料館へ

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残念な事に公害問題は、ほんの少しの説明

もう過去の出来事のように思われる

問題は本当に終わってるのだろうか?

日本一の銅山として日本の近代化や産業発展に大きく寄与した反面、
渡良瀬川への鉱毒問題や銅採掘での精錬所の煙害など、
「日本の公害の原点」と呼ばれた場所

1973年閉山後、輸入鉱石で精錬1989年 国鉄民営化移行で足尾線の貨物輸送が廃止、
製錬所は事実上操業停止に

そして現在、今、なお古河グループ(古河機械金属株式会社)が管理し
公害の後始末をしてる 古河の原状回復への年間予算は約2億円
しかし古河が完全ガラス張りで公害対策をしてるかは、甚だ疑問である
昭和51年に締結された公害防止協定で履行に対するチェックと、
現状の把握の為、委員会は年に何回か視察に行くようだが・・・

公害対策施設は今だ一般人には公開されず立入り禁止(閉鎖的)である

公開してこそ本当に履行してるか真実が解かるのではないか

今だに足尾の町は古河によって支配されてるとも思えてしまう

足尾銅山は昭和48年に閉山され、雨水などがその1234Kmにも及ぶ
トンネルに染み渡り、水質の2次公害を引き起こす原因にもなっており、
昭和51年に締結された公害防止協定により、汚染水を石灰で中性化し、
渡良瀬川に放出している
当初Ph9.5、石灰投入によりPh6.8~9、その後硫酸投入によりPh7.2の弱アルカリで放水し その際出た堆積物がポンプアップにより簀子橋堆積場へ堆積させる

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簀子橋堆積場 汚染水を中性化した際、混入する土壌を広大な上流のダムに堆積させ 非常に毒々しい カドミウムの心配は無いのか?あと50年でこの堆積用ダムは埋まり、坑道が有る限り
新たな堆積場が必要になるのか?

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上記の写真はある議員の方の写真である

私はこの場所に行き(ゲートが開いてたので立入り禁止が見えなかった)デジカメで様子を収めたが古河の社員によって強制的に削除されてしまった

本当に公害対策は万全なのか・・・・・閉鎖的、一般に見られては困る事があるのか?

写真の中にはもっと重大な所も有ったと思う。
大人が今も子供じみた探検をする馬鹿な親父です。。。
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栄華の影 栄枯盛衰

6/17の午後、思い立ち足尾銅山を訪ね到着は午後2時

思った以上の範囲や徒歩を強いられる場所

まあ、今回は下見程度と考え

次回は徒歩の出来る装備そして一眼レフで

勿論相棒はスーパーシェルパ
-------------------------------------------------------
本山手前のトンネル向こうには朽ち果てた本山精錬所が  間藤駅から本山の廃線


小滝坑の索道橋を後にし本山へ

左側には小滝坑道口


赤銅の道を抜け本山坑道口付近

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本山坑道口付近の昔と今

閉山直前の本山坑   今は無人 左側に本山抗跡



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左写真に写る鳥居と現在の鳥居

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既に時刻は4時を過ぎるが、暗くなるまで行ってみよう

完全に事業は停止していないようだ
会社名は足尾製錬株式会社足尾製錬所として
何か動いている
精錬するにも鉄道は廃線になり運搬不可能

管理の為なのか・・・・?

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この巨大な廃墟の中に新しい建物が見える
次回訪ねてみよう

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此処は完全に停止し廃墟に

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疑問は次回に持ち越し

足尾砂防ダムへ

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砂防ダムの直ぐ上
この大型砂防ダムももはや限界、浚渫(しゅんせつ)するにも費用が膨大。

上流にも関らず不自然な平原・・・元の姿はV字谷だったはずが山の岩や土が堆積し短時間の間に平原川原にしてしまったのだろう


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なるほど、上流に新たに砂防ダムが出来るのか・・・・
それで松木渓谷に行けないのか

松木川渓谷は日本のグランドキャニオンと言われるが・・・・精錬の為昔は近隣の山木を伐採し、近年は煙害を出せば急斜面の土や岩は当然雨で流れ落ちてしまう。。自然でなく人間の仕業なんだよなぁ

この先幾つもの砂防ダムを作らなければならないだろう


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夕闇も迫り間藤方面へ

もう此処も人の住む気配も無く廃墟です

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ここも廃墟
公園広場跡と住人が居ない住宅

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日本で2番目の水力発電跡

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簀子橋、天狗沢、有越沢 松木、原の各堆積場及び中才浄水場に行きたいが、
次回行く事にする

簀子橋堆積場は鉱毒を沈殿させて 鉱毒が流れぬように浄化 準備させておく所(沈殿湖)で
今、尚ダムの水は赤く湖面を彩ってる

しかし松木堆積場にも行けなかったのが残念・・何れ必ず行く。。

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足尾最終最大の通洞坑

は今足尾銅山観光として

坑道内を見学できます


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prologue 栄枯盛衰

プロローグ

地元に居ながら、その場所にはあまり興味が無かった

幼き頃、親父に連れられ「此処は古河財閥の基礎を築いた地・・古川市兵衛・・云々」と聞かされ、ただ、それだけの思いにすぎなかった

栄枯盛衰を繰り返し、銅山として実に400年の歴史があり山々の下には延べ1200km程の坑道が有ると言う

そして、数多くの人達の想いや歴史を刻んだ場所であった
今、尚その場所を尋ねると、昔はねぇ・・・と話す人も今や老いた人達。

いま一度訪ね見つめよう考えよう、そんな思いから 足尾銅山探訪が始まる

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出発は午後1時
思い立っての行動なので今回は計画性は無し

午後2時には足尾町に入る

一番古い坑道が有る庚申山方面に
庚申川を辿り直ぐに見える庚申山碑  この大きい碑も庚申塔の部類かなぁ~
                          とにかく大きい 
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こんな説明です・・・この説明を見ると、庚申塔で良いんじゃないのかな

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同じ場所にある庚申塔 先を急ぐので今回は精査しません・・・何れまた来ますから

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庚申山へ向かう俺とシェルパ

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昔小学生の頃は砂利道で道も狭く車では通れませんでした

カーブミラーに写る注意親父!最新のツーリング着でまた登場(作業着ですw)

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庚申山を登り最初に目に入るのが此処

足尾銅山歴史の悲しい出来事

太平洋戦争中の1942年、東条英機内閣は、日本人男子がみな兵隊にいってしまったことから労働力不足の対策として「華人労務者内地移入に関する件」という方針を閣議決定し、まず試験的に1943年4月から11月まで2000人の中国人を日本国内に強制的に連れてきて、炭鉱や土木工事に従事させました。さらに続いて1944年2月からは本格的に約4万人の中国人を強制的に連れてきてやはり炭鉱やトンネル工事などで働かせたといいます。いわゆるこれが中国人に対する「強制連行」といわれるものです。


朝鮮の人達も例外では無かった



質素な慰霊塔です・・・・



佇み、色々な考えが駆け巡り・・・・合掌。

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中国人殉難烈士慰霊塔

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足尾銅山(小滝地区)




奥へ進み日本近代化時代明治の精錬所/選鉱所跡です

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レンガを良く見るとカラミ煉瓦です
「カラミ」とは、銅の精錬で発生する副産物で、この「カラミ」で作ったものが「カラミ煉瓦」と言われる。

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昔の小滝の様子

今は人も居ない場所だが・・・昔は賑やかな場所だった。。

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少し先に行くと浴場跡

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当初の小滝坑道跡

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人が一人づつ入れる位のスペース

塞がれた坑道は廃墟と化していく

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足尾町指定史跡
 小 滝 坑 跡

 明治十年(一八七七年)足尾銅山経営を始めた古河市兵衛は小
滝の旧坑(二五〇m先までの堀止)を利用し、明治十八年(一八
八五年)七月にこの小滝坑を開坑しました。
 明治二十六年十一月には本山坑(間かく三〇〇五m)と貫通し、
次に立坑で通洞坑(間かく三二七六m)とも連絡するようになり
備前楯山に向かって三坑から採掘が進められました。
この開抗の功労者は笈川清七と木部末次郎であり、当時下駄づ
くり小屋が一軒しかなかったこの土地に、小滝坑を中心に銅山の施
設と集落が出現し、大正年間には人口一万人余となりました。
 昭和二十九年(一九五四年)銅山の経営合理化により小滝坑が廃
止されるとともに銅山の施設が全部撤去されて今日に至っています。
当時の名残を小滝坑と前岸のさく岩機練習のノミ跡にとどめて
います。小滝坑の小坑は、旧坑のひとつです。


  昭和五十一年三月十五日  足尾町教育委員会

この索道橋の向こうに小滝坑道が有る

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塞がれた坑道の横には
入り口を改修した時期が刻んであるのだろう

固く鉄の扉で塞がれた向こう側からは冷たい不気味な風が吹き出し
昔の坑夫の声の様にも聞こえた


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昔と変わらぬ川の流れは今も足尾の栄枯盛衰を知らぬ如く
ただ下流へと流れて行く

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昔、家々が軒を連ねてたであろう街道をシェルパで行く

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次なる道は本山坑道を目指し赤銅みちをシェルパと

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頂上付近の船石

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この頂上から本山坑道や近辺を眺めると
鉱毒ガス(主成分は亜硫酸ガス)と鉱毒(主成分は銅イオンなどの金属イオン)により、付近の環境は大きな被害を受け、今だに木々が生息しない不毛な山肌が見え始める

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不毛の山肌の中を駆け抜ける

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不毛の山となった今では最近改修した砂防ダムも限界が来てる

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この上の様子を見てみよう
雨による侵食で山肌が小さな岩となり流れ出し砂防ダムは限界
大雨になれば俺の嫌いな鉄砲水が
毎回押し寄せるだろう・・・・・・

怖いので早めに退散する

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次回の足尾探訪シリーズは

本山坑道&古川精錬所予定


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