fc2ブログ

軍刀(昭和刀)から思いを馳せ

軍刀『ウィキペディア(Wikipedia)』の画像より

Gunto__Saber_R.jpg



美術品として価値は低いと思うが・・・近年の歴史を物語る軍刀(九八式軍刀)

この軍刀は戦後何十年も

その時代を忘れようと眠ってた。

DSC02908_R.jpgDSC02909_R.jpg

錆びて無残な姿であろうと思い・・・・軍刀独自の鉄の鞘から刀を抜くと真剣は見事に光を帯てその眠った時間から抜け出した
軍刀の特徴として少し短めな二尺二寸の刃渡り

DSC02925_R.jpgDSC02923_R.jpg

波紋も綺麗に現れ、その湾曲した刃は薄い一枚のコピー用紙を見事二つ音もなく分けていった

DSC02917_R.jpg

柄には・・・・・そして鍔にも

DSC02920_R.jpgDSC02929_R.jpg

DSC02921_R.jpgDSC02922_R.jpg

この日本刀を見て恐ろしく思う人や
ある意味違った所でその当時の戦争に対する嫌悪感や様々な思いが浮かぶだろう。

この親父は中学時代に歴史の授業を教わった、当時勉強嫌いだったにも関わらず
近代歴史(日清戦争、日露戦争~太平洋戦争「大東亜戦争」そして連合軍の日本占領)と習い
その中で日本は悪かったと単純に思って何故かその日本に対する嫌悪感が少しでも有ったに違いない


改めて三十数年過ぎ末娘(中2)の歴史教科書の近代歴史を読むと愕然とする思いであった
日清戦争、日露戦争~太平洋戦争「大東亜戦争」そして連合軍の日本占領まで
原因と背景をもっぱら自国内にのみ探ろうとする傾向が著しく
明治以降の日本の歩みを「侵略と他民族への犯罪」と意識せざるを得ない
教育やジャーナリズムの状況の中にどっぷりと浸かり洗脳されていたと思う。
決してこの親父(俺)は左派や右派では無い

戦後半世紀以上が過ぎその真実を公平に見極める事が大事ではなかろうか?

靖国問題、教科書問題を巡る近隣アジア諸国との摩擦、さらには近年の日本におけるモラル低下による犯罪の増加、
これらのルーツを探っていくと東京裁判(極東国際軍事裁判)に行き着く。
日本人並びに世界に向かって、日本は犯罪行為を犯した悪者であると喧伝され、日本人の心に深く罪悪感と劣等感を刻み込む事になったのであり、
近隣諸国には侵略国日本に対する「謝罪と賠償」という外交カードを与えることになった。

東京裁判の、文明を踏みにじるような野蛮な復讐行為の是非は、白人諸国においても大いに議論の的になったという。事後法の作成、法の遡及、
有りもしない「共同謀議による戦争犯罪」のでっち上げ、敗戦国のみを裁くという片手落ち、などなど呆れるばかりである。
東京裁判の結果を後生大事に押し頂き、未だにA級戦犯がどうのこうのと真人目になって言っているのは日本人とその隣人だけである。
東京裁判を指揮した当のマッカーサーが「東京裁判は誤りだった」と発言しているのだ。

占領軍のくびきを捨て、正しい歴史認識を持ち、日本国に誇りを持てるような教育が成されなければならない。
日本にプライドを持てないような若者が国のために何かをしてくれるだろうか。国の法律を尊守するだろうか?
隣人と手を携えて平和な社会を築けるだろうか?

東京裁判判事の一人ラダビノード・パール(唯一無罪を述べた)判事は言う。
「まともで教育のある人々がなぜパールハーバーを攻撃する道を選んだのか。これを理解せずに、ただ非難する人がいる。彼らこそが戦争をもっとも起こしやすい人々なのだ」と。

敗れた国を建て直すには甚大な努力が必要となる。例えば国家や家族の生命を守る為に命を賭して闘った方々が、今は侵略者と言われている。
本当に彼らは侵略者だったのか?本当に侵略の為に命は張れるのか?真剣に考えねばならない。彼らは何の為、あそこまで激しく戦い抜いたのだったかと。
東京裁判が結論のみで、理由も証拠もない裁判だった事を明らかにされたのがパール判事である。
また、開戦を決断した日本という国家に義すらあったことを説かれている。

これはすべての日本人にとってとても重要な事だと思う。戦後の日本人が自国の歴史について考える時、国策としての過ちがいくつかあったことは間違いないが
東京裁判で裁かれた満州事変から終戦に至る日本の歩みは決してこのような形で裁かれるべきではなかったと。
歴史有る道徳中心教育も今はGHQにより消されたが・・・・・・

あの軍刀が残ってたように日本古来の道徳教育を残すべきではなかろうか?
武士道や大和魂を

教育勅語抜粋訳
  【天皇の歴史観】
 私、天皇が振り返って考えてみるに、神武天皇の建国は大変な偉業であり、歴代の天皇は道徳の確立に励まれていた。
 また国民も公的には忠義であり、私的には孝行であった。そんな皆が、心を合わせて美しい日本の姿をつくってきたのは、
 我が国の最も素晴らしい所である。教育というものも、この部分に由来しているのだ。
  【国民への命令】
 国民達よ。父母を大切にし、兄弟や夫婦と仲良くせよ。友人とは信頼を持って付き合え。自分を謙虚にして、人々とは博愛の心で付き合え。
 学問を習い、技術を身に付けよ。知識を深め、そして道徳を高めるだけでなく、一歩進んで、世の中の役に立ち、世界で活躍するのだ。
 道徳や法律を尊重し、大事が起これば迷う事なく公の為に働け。
 そのようにして、天地の続く限り、永遠に繁栄する日本国をつくってゆくのだ。以上の事を実行する者は、立派な国民となるだけではなく、
 御先祖様が立派であったことをも証明できるのだ。 
 【結びの言葉】
 以上の言葉は、歴代天皇が教え伝えてきた命令である。
 私やその子孫である天皇も国民も、区別なくこれを守らなければならない。
 この教えは、どんな時代に当てはめても間違っておらず、どんな国に見られても恥ずかしくなく、立派な教えである。
 私も国民も常に心掛けて、同じように立派になるよう、切に希望する。


国境を越えた恋そして・・・・・

ロシア金貨の日本人の名は看護婦? 国境越えた恋か 愛媛

2010.2.10 02:17 
 松山城二之丸跡で出土したロシア金貨の裏面にあったロシア人青年将校と日本人名とみられる文字の調査について、松山市は9日、金貨に刻まれた日本人名が「竹場ナヲ」という看護婦だった可能性が高いと発表した。

 当初、金貨に刻まれた2人の人物名を「タチバナカ」「コステンコミハイル」と判読したが、「タチバナ」の「チ」を「ケ」と読み替えることが妥当と判断した。

 市によると日露戦争当時、松山には捕虜収容所があり、二之丸跡の陸軍病院では捕虜の医療が行われいた。当時の新聞には竹場さんが看護婦として勤務したことを示す記録が残っている。また、新聞には竹場さんを「竹場ナカ」と記載した記事もあり、金貨の文字と竹場さんの関連が深いとみている。

 竹場さんについて詳細は不明だが、中村時広市長は「国を越え、許されない恋があったのでは」と思いを巡らせていた。

 金貨は明治32年製、直径2センチの10ルーブル金貨で、表面にロシア皇帝ニコライ2世の肖像が描かれている。昭和60年の市の調査で出土し、今年1月に人物名の存在が確認された。   産経ニュースより
img2819819bzik9zj.jpgimgcecf244azikdzj.jpg

敵国の関係・・・それでも恋は芽生える。なんとも言えぬロマンを感じます

「戦争」はやるべきでないですね

日露戦争は1904年(明治37年)に没発した大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満州南部を主戦場として発生した戦争であるが、戦争の決着をつけたのは日本海戦であった。
ロシアのバルチック艦隊と日本軍連合艦隊が日本海において激突した。日本軍連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の指導のもと歴史的大勝利を収めた。
さて、この日本海戦でロシア側は壊滅的打撃を受けるのだが、戦死者は4545人、捕虜は6106人でこの日本軍に捕虜となったロシア軍人が日本でどんな扱いを受けたか?

日本各地に捕虜収容所があったのだが、松山にあった収容所を例に取ると、食事は日本の軍人よりいいものが与えられ、彼らの嗜好に合うようパン、バター、紅茶や肉類が出された。最初は満足していた捕虜が、食事をまずいといい出すと西洋料理のコックの指導を仰いで料理が提供された。中には収容所の食事に満足できず個人でコックを雇い入れて料理を楽しむセレッキー予備海軍中佐のような輩もいた。

さらに、収容所側では、将校には50円、下士官には15円のお小遣いを支給していた。
さらに、さらに、捕虜の外出は自由で、海水浴をするため列車の定期券を買いこんで連日出かけるものも多数いた。また、彼らは冬場には道後温泉に競うように通った。

■ハーバート・G・ポンティング=イギリス人。1910年(明治43年)にスコット大佐の第二次南極探検隊に加わり記録写真を撮った写真家。1901年(明治34年)~1902年(明治35年)来日。日露戦争にも従軍。

「英国人写真家の見た明治日本」より

 プラットホームに立っていると、そこにロシア軍の捕虜を満載した列車が到着した。乗っていた捕虜の全員が戦争から開放された喜びで、大声で叫んだり歌を歌ったりしていた。・・・反対の方向から別の列車が入って来た。それは日本の兵士を満載した列車で、兵士達は前線に行く喜びで同じように歌を歌っていた。

 ロシア兵と日本兵はお互いの姿を見るや否や、どの窓からも五、六人が頭を突き出して、皆で歓呼の声を上げた。ロシア兵も日本兵と同じように懸命に万歳を叫んだ。列車が止まると日本兵は列車から飛び出して、不運?な捕虜のところへ駆け寄り、煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、その頬にキスしようとする者さえいた。私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった。

(中略)松山で、ロシア兵(捕虜)たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。寝たきりの患者が可愛らしい守護天使の動作の一つ一つを目で追うその様子は、明瞭で単純な事実を物語っていた。

 何人かの勇士が病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。ロシア兵が先頃の戦争で経験したように、過去のすべての歴史において、敵と戦った兵士がこれほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。それと同時に、どこの国の婦人でも、日本の婦人ほど気高く優しい役割を演じたことはなかったのではあるまいか。


日露戦争に於いて美談は数々の記録として残る

第一次大戦
日露戦争時同様、戦時下においては陸海軍とも国際法を厳しく守り、捕らえたドイツ軍俘虜は丁重に扱った。青島で捕獲した俘虜約4,700名は徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、ドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本人に伝えられた。

ベートーベンの「第9」はこのときドイツ軍俘虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。ドイツに帰還した元俘虜はこのときの扱いに感謝し、「バンドー会」を結成している

後にヨーロッパの戦勝国は世界の秩序をもとに戻そうとパリで講和会議を開いた。それぞれの国にはそれぞれの思惑があったが、一致していたのは、日本とアメリカからの申し入れには耳を傾けよう、という姿勢だった。

■レジナルド・カーニー=アメリカ人。歴史学者。黒人学専攻。ハンプトン大学助教授。より
 ウィルソン大統領は、世界秩序回復のための十四カ条を手に、パリに乗り込んだ。彼がまず唱えたのは、国際法と国際秩序の確立であった。日本の代表団は、ウィルソンが出せなかった十五番目の提案を持って講和会議に出席した。「わが大日本帝国は、国際連盟の盟約として、人種平等の原則が固守されるべきことを、ここに提案する」。これこそが、いわゆる十五番目の提案であった。……人類平等の実現をめざしていた日本と、そうでなかったウィルソン、その差がここに出たといってもよいだろう。

 もし日本のこの十五番目の提案が実現されていれば、アメリカ黒人にとって、おもしろいパラドックスが生じていたかもしれない。……アメリカ黒人がほかの連盟国の人間と同じように、民主的に扱われるためには、アメリカ以外の外国に住まねばならなかったはずである。そんなパラドックスが生じていたかもしれないのだ。……「おそらく世界で最も有望な、有色人種の期待の星」、それが日本であるという確信。日本はすべての有色人種に利益をもたらすという確信があったのだ。それは、たとえ一つでも、有色人種の国家が列強の仲間入りをすれば、あらゆる有色人種の扱いが根本的に変わるだろうという、強い信念によるものだった。……全米黒人新聞協会は、次のようなコメントを発表した。「われわれ黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を闘わせている日本に、最大の敬意を払うものである」「全米千二百万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」。

(引用者注:日本が提出したこの「人種差別撤廃法案」の投票結果は賛成17、反対11であったが、委員長を務めていたウィルソンが、かような重要案件は全会一致でなければいけないとして、不採択を宣言した)
  
日本が連合国5大国の一国となり、戦後にヴェルサイユ条約により山東省の権益と、アメリカ領フィリピンとハワイの間に位置するパラオやマーシャル諸島の統治権を得たことや、シベリア出兵を続けるなどアジア太平洋地域においてアメリカの利権に影響を与え出したことに対して、アメリカ国内で日本に対する脅威論が支持を受けた他、これに後押しされた人種差別的指向を持つ諸派が「黄禍論」を唱え、その結果日本からアメリカへの移民が禁止されるなど、第一次世界大戦終結後に日本とアメリカの関係は悪化することとなった。

さらにアメリカは、日本を5大国の一国に押し上げる原動力の1つとなった日英同盟を妨害すべく、太平洋における領土と権益の相互尊重と、諸島における非軍事基地化を取り決めた「四カ国条約」を提唱し、1921年には日本、アメリカ、イギリス、フランスの間で同条約の締結に成功し、同時に日英同盟は解消された。この結果日本は国際的に孤立し、その後日本は英米との対決姿勢を取ることを余儀なくされる。


後に敗戦国となり戦勝国のプロパガンダ

そして閉ざされた歴史ある道徳教育

南京大虐殺やその他・・・・・多くの悪いイメージを残す事になる
(その戦争により一般市民も巻込まれ命を落とす事は多少なり存在する虐殺とはまた違う意味だ終戦から半世紀が過ぎ南京虐殺30万と言われたものはプロパガンダに過ぎなかった・・・しかし戦勝国の東京大空襲や原爆投下は虐殺では無いのか疑問が残る)
http://www.youtube.com/watch?v=tTiLFdwhDes
http://www.youtube.com/watch?v=Oj945v_02Mo
http://www.youtube.com/watch?v=_NH_a94fzEw
http://www.youtube.com/watch?v=sAHEKebbhy0
http://www.youtube.com/watch?v=O0ZPeFDG_BA
http://www.youtube.com/watch?v=6_0w2UP1s1Q
平和な難民キャンプ。 そして、秋の南京における修理仕事の状況。 共産主義独裁政権歴史家を信頼してはいけません。 この画像は、南京で実際に何があったかを証明します。 南京大虐殺を示す証拠は、中国の広告部および証拠のない証言によって捏造された写真だけであると考えられます。 歴史上中国は、自国の市民を何百万人も虐殺してきました。 中国は今、チベットとウイグルで何を行っていますか。 John Rabeは自身の会社の利益のために嘘をつきました。そして、H.J.Timperleyは国民党宣伝部から報酬を得ました。

再審「南京大虐殺」
http://www.ne.jp/asahi/unko...


日本の大東亜共栄圏の目的は、アジアの欧米列強植民地をその支配から解放、独立させ、現在の欧州連合のような対等な国家連合を実現させることであった。大東亜宣言には直接植民地にしない『相互協力・独立尊重』などの旨が明記されている。(独立尊重とは、民族自決権である)
日本軍は占領地域に対して実質的な独立を与えぬまま敗北し、日本占領下において日本語による皇民化教育や皇居遙拝(ようはい)の強要、人物両面の資源の収奪などが行われたことから、日本もかつての宗主国と同じか、それ以上の侵略者、搾取者に過ぎなかったという見方がある。

敗戦後GHQにより廃止された教育勅語

日本の文化の伝統と独自性を持つ教育勅語からは数千年の歴史とその教えが、教育勅語の冒頭を始め、その全体に生き生きと現れているのである。

ここにある教育勅語という現実からは、日本という国の尊さ、深遠さ、その建国から連なる綿密性が生き生きと感じられるのである。
軍国主義との関連
教育勅語が軍国主義に繋がったのではなく、軍国主義が教育勅語を利用したと考えるのが正解のように思う。

上に述べたように、教育勅語は非常に平和的な道徳を説いている。 一言で言えば”人間、完璧ではない。狂うときもある。” ということである。 全てをごっちゃにし、戦争時代にあったものは全て悪いものだったという風潮が一部の論者、特に左翼主義者に根強いが、教育勅語に関して言えば、それ自体は全く問題がないものであったと思える。


アメリカの対シナ政策を大きく誤ったアメリカ(歴史にWhat ifは無いがあえて大日本帝国軍部も本来の対アメリカより大東亜共栄圏の本来の基本戦略を守ってれば・・・)
支那と朝鮮半島北半分が共産化し、東アジアに於けるソ連の存在感は驚異的に拡大することは避けられただろう


結果として

大東亜戦争は世界の地図を塗り替えるほどの結果をもたらした。民族は解放され、世界の各地でそれぞれの民族が独立を果たした。大東亜戦争の目的を完璧に果たしたのである。日本は、戦争には負けたが、その目的を見事に完璧なるまでに果たしたのである。 これはまさに、世界史上の最高峰であり、人類五千年の世界史上から見ても、大東亜戦争以上の大事件は見あたらないのである。

大東亜戦争の意義を認識する者は、次のように雄弁に語る。

 アレキサンダー帝国の建設も、ジンギスカンの大遠征も、ナポレオン戦争も、第一次世界大戦も、大東亜戦争の規模、内容、結果に比べたら、ものの数ではない。歴史的時間の経過と共に、この大事件の意義が、虹の彼方に富士山やエベレスト山のように、明瞭に、雄大に、英姿を現してきたのです。(中略)
 近世、世界史上人類解放の三つの革命があったといわれる。それは、「産業革命」と「フランス革命」と「大東亜戦争」である。産業革命で労働から解放、フランス革命で自由と平等を、大東亜戦争で有色人種四十億人が白人の奴隷支配から解放された。この最後の解放ほど偉大な歴史があったであろうか。


戦後の荒廃から立ち上がった日本
それは、まだ戦前の教育が体に染みた先輩達の努力の賜物と言っても過言でないだろう

時代は我々そして子供達へ・・・日本の文化の伝統と独自性を持つ教育がなくなり個人主義が。
今後の日本はどこへ

もう一つの真実と誇れる日本道徳

ここでは、太平洋戦争と言わず大東亜戦争と称し
85歳になる自分の親父は大東亜戦争と言う
1945年(昭和20年)8月の日本進駐後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が中心となり、軍国主義、全体主義、極端な国家主義などを日本から排除する政策を行った。その一つが1945年(昭和20年)12月15日付けの日本政府に対する覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(「神道指令」)である。これにより、日本語としての意味の連想が国家神道、軍国主義、国家主義と切り離せないと判断され、「大東亜戦争」は「八紘一宇」(八紘一宇は「世界一家」を意味する語)などの用語とともに公文書で使用することが禁止された。

また、1945年(昭和20年)12月8日(開戦4周年)には新聞各紙がCIE作成の「太平洋戰爭史」の掲載を開始、さらに翌日からは日本放送協会から「眞相はかうだ」のラジオ放送が開始され、「大東亜戦争」という用語は強制的に「太平洋戦争」に置き換えられていった


自分は「過去において、日本は他の国を侵略するために戦争を行った」と思ってきた。
自分の国が悪い国だなんて信じたくないが、そう思わざるをえない
学校でもそう教えられて、テレビや新聞などマスコミの多くもそのように情報を流していた。
戦争のことが話題になると、嫌な気持ちになったものだ。アジアの人々に申し訳ないと思い、
罪悪感から戦争の話題から逃げ出した。そして自らは自信を失くしたのだ。




日本人なら、知っておくべき歴史だと思う





大東亜戦争『開戦』の真実

昭和16年12月8日大東亜戦争が開始された戦後の日本に於いては、この戦争の原因と背景をもっぱら自国内にのみ探ろうとする傾向が著しく強かった(日本の中だけにあの戦争の原因があったのだと言う考え方)
しかし、戦争は当然ながら(相手=敵)がなくては成立しない。敵側の動きにも十分目を届かさなくては、公正な歴史観にはなり得ない。
そこで、その点にも配慮しつつ、大東亜戦争開戦の背景を探ってみると、どう見えてくるか?。
開戦の直接原因は、言うまでも無く、何とか戦争を回避しようと続けられて来た日米交渉の決裂で、その決裂を決定付けたのはアメリカのハル国務長官から11月26日に提示された「合衆国及び日本国間協定の基礎概略」なる文章(いわゆるハル・ノート)だった。
その内容は、交渉スタート時にアメリカから示された「4原則」(4月16日第3回会談)に加えて、シナ及びフランス領インドシナからの一切の日本の陸・海・空の兵力及び警察力の撤収、(シナ大陸に於ける)汪兆銘政権の切捨てなどを求めるもので、到底日本が受け入れられるものではなかった。
それが日本に戦争を強制するものであることは、ハル長官自身がよく承知していた
このハル・ノートの起案者はハリー・デクスター・ホワイト財務次官。彼は戦後、ソ連のスパイである事が発覚して自殺してる
資本主義国同士の日米戦争はソ連及び国際共産主義の利益にかなう。
だから彼が日本がとても受諾出来ない提案を作ったのは当然。さらにその背景としてルーズベルト大統領自身も対日戦を望んでいた事実がある。
それは8月9~12日にかけてイギリスのチャーチル首相と大西洋会談を行った際、「たとえ攻撃されなくても極東の戦争に参加」する事を約束したと考えられる事も明らかだった。
(これはチャーチルの演説の中のその内容を検討すると明らか)
一方対米戦を避けたかった日本側は、8月に近衛首相とルーズベルト大統領の首脳会談を提案。
そこでシナ本土からの撤兵など大胆な譲歩を示して、昭和天皇の詔勅を頂いてでもその条件の厳守を国内に徹底し、なんとしても日米合意を実現しても戦争を回避する決意であった。
もしこの会談が、実現してれば、日米戦争はさけられていた可能性も、十分考えらる。(それほど日本は思い切った譲歩を考えてた)
だが、対日戦を望むアメリカ側が拒否。
当初ルーズベルトもこれに応じようかと考えたがハル長官がそれを遮って結局その会談は実現しなかった
しかも、これ以前にアメリカは日本資本の凍結(7月25日)と対日石油禁輸(8月1日)に踏み切って石油禁輸は既に戦争行為と言い得る。よって日米戦争は基本的にアメリカから仕掛けられた戦争であった。そう言う性格を濃厚にもってた。
マッカーサーが戦後、大東亜戦争について
「彼ら(日本)が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られての事」と発言した(昭和26年5月3日、米乗員軍事外交合同委員会)もの、そうした事情を踏まえての事であった。
では、アメリカが戦争を意味する石油禁輸に踏み切った理由はなにか?日本軍の南部仏印進駐(7月28日)が直接のキッカケ。
これは、対日包囲網の形成上、重要な地域であり、米英側の手が伸びる前に日本が先手を打ったものだ。
それと共に、近衛首相の側近のコミンテル(国際共産党)スパイで朝日新聞の記者だった尾崎秀美が日本の軍事力が北のソ連に向くのを阻み、(要するに日本の軍事力が北(ソ連)に向かうとナチスの軍事力とソ連は挟み撃ちなって窮地に陥る)
南方に向くように工作を進めていた事の影響もあったであろう。
なお、これより前、ドイツに占領されるのを防ぐべく、先手を打ってイギリスはアイスランドを占領し(昭和15年5月)、アメリカはグリーンランドに空軍基地を建設(昭和16年4月)してる
即ち日本の南部仏印進駐は当時、決して特異なものではなかった
日米対立が激化した起点はどこか?
昭和15年9月の北部仏印進駐で支那事変の最中、アメリカを中心とするイギリス・フランス・オランダなど諸国が、蒋介石政府(日本と事変態勢にある)に対し、資金や武器の援助を行っていた。
その援助物資を輸送するための「援蒋ルート」のうち最も重要ものが仏印ルートで日本としては支那事変の早期終結のため、このルートを遮断する必要があった。
そこでドイツに降伏したフランスのビシー新政府と2ヶ月に及ぶ外交交渉の末、仏印領土保全とフランスの主権尊重、軍隊は6000人以下4ヶ所の飛行場周辺に限定、支那事変解決までの暫定処置である事を明文化した上(松岡・アンリ協定)で9月に平和的に日本軍の進駐を開始した
ところがアメリカはこの協定を認めず、日本に対する屑鉄屑鋼の全面禁輸(昭和15年10月)を断行した
しかし、日本と戦闘を続ける蒋政府への軍事支援は、それ自体事実上の「参戦」と見なす事ができよう
かくて日米戦争の淵源がシナ事変でのアメリカの支那への一方的な肩入れにあったことには疑いの余地がない
その際、ルーズベルト大統領の補佐官で支那問題について独占的に助言してたラフリン・カリーがソ連のスパイであった(後にコロンビアに亡命)事実は重大だ。そもそも支那事変そのものの勃発と拡大についても、中国共産党の策謀(29軍副参謀長張克侠、京ご警備司令官張冶中らの工作)及びその背後にコミンテルンの指導(興亜院政務部編「コミンテルンに関する基本資料」)が有ったことが既に指摘されてる
大東亜戦争に於ける日本の敗北の結果、支那と朝鮮半島北半分が共産化し、東アジアに於けるソ連の存在感は驚異的に拡大した
これはソ連の国際的策謀が大きな成果を生み出した事を意味し、その責任の多くは、ことさら日本を戦争に追い込んだアメリカの失政に帰せられるべきであろう
昭和39年7月に訪中した社会党左派グループが日本の「侵略」を謝罪したのに対し、毛沢東は「(あの戦争が無ければ)中国共産党は政権を奪取する事が出来なかった」と率直に表現してる。
これは、対シナ政策を大きく誤ったアメリカに対する最大の皮肉であろう。
大東亜戦争の開戦をめぐり、日独伊三国同盟の締結など、日本側にも国策上の誤りがあった事は、無論見逃すべきでなかろう。しかし、最も歴史に学ぶべきなのは、シナ問題の本質を見誤ったアメリカではあるまいか。
ヨーロッパに於いて共産圏を拡大させたヤルタ密約が誤りであった事は、既にブッシュ大統領も認めている。
ならば、日本を戦争に追い込む事で、東アジアにおいてそれに劣らぬ事態を招いた事の過ちも、率直に認めるべきであろう
東アジアにおいてアメリカの最も信頼すべきパートナーは日本か中国か。アメリカは今後も歴史を顧みて、懸命な判断を持つべきだ。

もし、あの時アメリカが事態を正確に見通す事ができ、蒋介石政権に対する莫大な支援を停止していたならば事態は大きく変わっていったはずで、支那事変も早期に終結を見ただろう
支那事変の終結を見れば日米の大きな対立も拡大する事なく日米戦争も回避されたに違いない。

真実はどこに・・・・



日本がアジアに残した功績



世界に類を見ない300年の長い平和が続いた歴史に日本の(江戸時代)がある
その平和な歴史の間アジアの国々は植民地時代へと・・・
幕末、西洋列強に対して民族存亡の危機から日本は立ち上がったと言っても過言でなかろう

------------------------------------------------------------------------

民間道徳から教育勅語へ

江戸時代、庶民は仏教・神道・陰陽道・道教などが結びつきあった独自の民間信仰に因る道徳観念を持っていた。

慶応3年(1867)10月、大政奉還が行われ、12月9日には王政復古が宣言され
まさに時は明治維新、時は大きく変わろうとし「五箇条の御誓文」が出されたのは次の年の3月であり、
同じ年に明治元年となった。 この御誓文は、まさに明治時代を象徴するものであったと言えよう。
明治維新とは何であったのか、と考えるとき忘れてはならないのは、それが「維新」であると同時に
「復古」でもあったということである。この「五箇条の御誓文」はまさに、「復古」の象徴とすべきものである。
一見したところでは海外からの輸入品と見られがちな内容であるが、実態は伝統の上に根ざしたもので

以下に訳すと
一広ク会議ヲ興(おこ)シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スベシ
「広く会議を開設し、何においても公の議論によって決めること。」
一上下(しょうか)心ヲ一(ひとつ)ニシテ盛ニ経綸(けいりん)ヲ行フベシ
「上に立つ者も下に立つ者も心を1つに合わせて国のため、活動にはげむこと」
一官武一途庶民ニ至ル迄各其(おのおの)志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦(う)マザラシメン事ヲ要ス
「官史も武士も庶民もみな一つとなって、それぞれの志を遂げることができるようにして、
 国民が失望したりやる気を失うことがないようにしなければならない。」
一旧来ノ陋習(ろうしゅう)を破リ天地ノ公道ニ基クベシ
 「天地ノ公道」とは今で言う「国際法」のことで、当時は「万国公法」と言われた。
 よって、国際法に基づく国を作ってゆこう、という宣言でもある。
 「古くからのしきたりに囚われず、世界に通ずる普遍的な道理に基づいて行動して行こう」
一智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基(こうき)ヲ振起(しんき)スベシ
「知識を広く海外に求めて、大いに日本という国を発展させるべきである」
最後の結びとして
我国未曾有ノ改革ヲ為(なさ)ントシ 朕躬(ちんみ)ヲ以テ衆ニ先シ 天地神明ニ誓ヒ 大ニ斯(この)国是(こくぜ)ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ントス 衆亦(また)此(この)旨趣ニ基キ共心努力セヨ
「我が国はかつてない改革を行おうとしている。朕〔天皇〕はまず先に、天地神明に誓って大いにこの国の方針を定め、万民の保全の道に立とうとする。 庶民はこの趣旨に基づいて、共に心を一つにし、努力すべし」
この最後の結びの最後の1行はほとんどの教科書で省かれているという。


万国公法について (コラム)
万国公法とはヨーロッパ人たちが長い戦いの末にやむなく作った戦いのルールである。
それを日本では最初から善とみなし、自ら守り見に付けるべき目標として受け入れてしまった。
次のような視点に欠けていたのである。

もともと万国公法は、ヨーロッパ中心主義の、
そしてヨーロッパ人にとって自己の戦争を優位かつ合理的に展開するための
ルールとしてつくられた国際法であった。その底には彼らの非キリスト教徒、
非白人への蔑視と、コントロール術が内包されていた。その点に気がつかずして、
幕末の志士たちは、万国公法を学ぶことが文明開化であり、
新しい時代への参入であると嬉々としてこれを迎えた。
文明開化は、長い目で見ると日本にとって、西洋という悪魔とのつき合いの始まりだったのである。
黒船が襲ってきた時の恐怖はすぐ忘れられ、賑やかな西洋文明礼拝の風潮が高まるにつれて、
その文明にはウラがあるなどとは、誰も全く気がつかなかった。日本人の性善説に立つ「単純さ」は、哀れなほどである

明治2年頃から、小中学校が次々に竣成されている。一方で、その学風は急速に西洋化されていったようで
明治5年、一般人(華士族農工商及び婦女子)の全てが学問を学べるよう制度化された。
同年、福沢諭吉が「学問のすゝめ」を出している。そして明治12年、小中学校が十分な数(小学校2万8千、師範学校・中学校196)に達し、
家に不学の人なからしめん」との聖旨は達成された。

そして教育勅語へ
これは、西洋の学術・制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したものである。
もちろん、西洋文明にも宗教(キリスト教)を背景とした道徳教育は存在するが、
それを直接日本人に適用するわけにもいかず、
かといって伝統的に道徳観の基本として扱われてきた
儒教や仏教を使うことも明治新政府以降の理念からすれば不適切であった。
このため、伝統的な道徳観を天皇を介する形でまとめたものが教育勅語とも言える。
こうした道徳観は、伝統的な儒教とは異なるものであり、江戸時代の水戸学からの影響が指摘されている。
教育勅語は明治23年(1890年)に発布された
以下が略
 【天皇の歴史観】
 私、天皇が振り返って考えてみるに、神武天皇の建国は大変な偉業であり、歴代の天皇は道徳の確立に励まれていた。また国民も公的には忠義であり、私的には孝行であった。そんな皆が、心を合わせて美しい日本の姿をつくってきたのは、我が国の最も素晴らしい所である。教育というものも、この部分に由来しているのだ。
 【国民への命令】
 国民達よ。父母を大切にし、兄弟や夫婦と仲良くせよ。友人とは信頼を持って付き合え。自分を謙虚にして、人々とは博愛の心で付き合え。
 学問を習い、技術を身に付けよ。知識を深め、そして道徳を高めるだけでなく、一歩進んで、世の中の役に立ち、世界で活躍するのだ。
 道徳や法律を尊重し、大事が起これば迷う事なく公の為に働け。

 そのようにして、天地の続く限り、永遠に繁栄する日本国をつくってゆくのだ。以上の事を実行する者は、立派な国民となるだけではなく、御先祖様が立派であったことをも証明できるのだ。 
 【結びの言葉】
 以上の言葉は、歴代天皇が教え伝えてきた命令である。
 私やその子孫である天皇も国民も、区別なくこれを守らなければならない。この教えは、どんな時代に当てはめても間違っておらず、どんな国に見られても恥ずかしくなく、立派な教えである。私も国民も常に心掛けて、同じように立派になるよう、切に希望する。


【海外の反応】ちょっと前のにっぽん人




戦勝国の良心


平成3年、日本傷病軍人会代表団が戦時は敵国であったオランダを訪問した際、同国の傷病軍人代表と共に聞いたアムステルダム市長の挨拶が、以下のものである。

「貴方がた日本は、先の大戦で負けて、勝った私どもオランダは勝って大敗しました。今、日本は世界一、二位を争う経済大国になりました。私たちオランダはその間屈辱の連続でした。即ち勝ったはずなのに、世界一の貧乏国になりました。戦前はアジアに本国の三十六倍もの大きな植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で本国は栄躍栄華を極めていました。
 今のオランダは日本の九州と同じ広さの本国丈となりました。あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。
 あなた方こそ自らの血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。何故ならあなたの国の人々は、過去の歴史の真実を目隠しされて、今次大戦の目先のことのみ取り上げ、或いは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史をふり返って、真相を見つめる必要があるでしょう。
 本当は私共白人が悪いのです。百年も三百年も前から競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。植民地や属領にされて長い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想をかかげて、大東亜共栄圏という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
 本当に悪いのは侵略して権力を振っていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現しました。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わりました。その結果アジア諸民族は各々独立を達成しました。日本の功績は偉大です。血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです」





                        (作成:石原 様 / 春を思えば)


この歌について宮沢和史は1996年にねじめ正一とのテレビ対談において「坂本九の『上を向いて歩こう』のような歌を作りたかった」と述べている[2]。また、宮沢はニュース番組「NEWS ZERO」において、「沖縄戦があったことは知っていたが、集団自決やひめゆり学徒隊などのことを知らなかった。その無知だったことに対する怒りや、当時の軍事下の教育に対する疑問みたいなもので怒りがこみ上げて、地下のガマに残っている皆さんの魂を空に解放したいなみたいな思いがあって、東京で『島唄』を作った」と述べている


アメリカは日本に勝つ為必死に日本を研究して日本は敗戦後アメリカから学ぶ事を躊躇わなかった
そして見事な経済復興をとげ
その意味で真珠湾は日米同盟に向かう重要な礎石としての意味も持っていた。
---------------------------------------------------------------



 大西瀧治郎中将の遺言

特攻隊の英霊に日す 善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。

次に一般青少年に告ぐ 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり 隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ 諸子は国の宝なり 平時に処し猶克く特攻精神を堅持し日本民族の福祉と世界人類の為 最善を尽くせよ。


遺書

お父様、長らく御無沙汰致しております。その後お変わりなく、お働きの事と存じます。

俊郎も至極強健、操縦任務に献身致しておりまする故、なにとぞ御安心下さい。

内地の報を耳に致す度に、我が胸中裂けん思いで一杯です。

馬来の状況も、日一日と悪化致し愈々我が、今に生まれし特攻隊として、
    
敵空母戦艦撃沈さすその時期を、待つのみです。



お父様俊郎は、鎌倉に生まれし事を嬉しく且つ、幸福に存じます。

俊郎、生を受けてより今日まで何一つ孝をなさず。子としての、務めに非ずと

思いしも致せず。

しかしながら俊郎、ひと度び特攻機と、運命を共に致した時はどうかこれが、

俊郎の最初で最期の孝行と思って下さい。

皇民と生まれし我の幸せ、人間一度は死するものなり、黒か白か二つの内一つ

つなり。白き箱にて、帰りました暁にはどうぞ、花の一枝でも上げて下さい。

男の本懐之に過ぐるにあらん。

敵、本土上陸せば親も子も非ず、ただ国に身を尽すのみ。

暫くすれば俊郎と、靖国の社にて親子の対面なり。


ああ壮なる歳、十八歳にして特攻隊として死せるか、悠久の大義に生きるか、

我、笑って死なん。

馬来の夕暮れ椰子の葉、夕日が西に沈まんと欲す。

我一人、遠き郷里の母の顔を瞼に浮かべ、父母の健在を祈る。

願くば靖国に来りて。   

俊郎より

 時枝に告ぐ

我が妹なりと思えば何か、筆を走らさん。

兄として何一つ、面倒を見ずして死するは実に、悔むるところなり。

しかしながら我が志、何か通はん。

十五なりといえども、今は子供に非ず。兄無き後はよく、父母に使へ兄の分まで

孝をなしてくれ。

妹、勝子の指導又大なり。私心に走ること無かれ、本性を理解せよ。
 
                                                         兄より



国(君)の為、何が惜しまん我が命、死して護国の

  神と化しなん





彼らはもっていた
己の命より尊い価値を
それは戦後生まれの日本人の大多数がもってない
価値である

我々はその誇り高き民族意識を忘れてはならない


Pagination

Utility

プロフィール

kazu親父

Author:kazu親父
★お知らせ★
2008年12月よりFJR1300Aから BMW R1200RTに乗換えました。
ブログタイトルはこのままにします宜しくお願い致します

風と共に FJR VTR




風と共に FJR VTR

↑ツーリングクラブ ECHO


にほんブログ村 バイクブログ ツーリングへ


カレンダー

プルダウン 降順 昇順 年別

04月 | 2023年05月 | 06月
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -


検索フォーム

ツリーカテゴリー