戦後68年大東亜戦争が終わり後にGHQによる「大東亜戦争」使用の禁止で(戦後に太平洋戦争と呼ばれるようになった)軍隊経験の有る自分の親父も「大東亜戦争」と言う言葉を使ってた覚えが有る
大東亜戦争とはアジア解放を目的とした自存自衛の戦争である故の意味で、その為この言葉は消されてしまった。
しかし、悲惨な戦争は起こしてはならぬ事を肝に銘じなければならない
その戦争により日本は世界でも唯一被爆国となり罪の無い国民を大勢巻き添えにした
そして歴史や外交にもその傷を残し明治以降の日本の歩みを「侵略と他民族への犯罪」と意識せざるを得ない形に変えてしまい近隣諸国には侵略国日本に対する「謝罪と賠償」という外交カードを与えることになった。
また大きな損失は国民性豊かな教育の根幹が崩されてしまった事かと思う
戦前の日本の教育は道徳が基本だった
教育勅語
教育ニ関スル勅語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト広遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御爾
以下に訳すと
「朕惟うに、我が皇祖皇宗国を肇むること広遠に、徳を樹つること深厚なり。我が臣民、克く忠に克く孝に、億兆の心を一にして、世世厥の美を済せるは、此れ我が国体の精華にして教育の淵源。また実にこれに存ず爾臣民、父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己れを持し、博愛衆に及ぼし、学を修め、業を習い、以て智能を啓発し、徳器を成就し進し公益を広め、世務を開き、常に国憲を重んじ、国法に遵い、一旦緩急あれば義勇公に奉じもって、天壌無窮の皇運を扶翼すべし。この如きが、独り朕が忠良の臣民たるのみならず、又以ておのれ祖先の遺風を顕彰するに足らん。
斯の道は、実に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すべき所、これを古今に通じて謬らず、これを中外に施して悖らず、朕、爾臣民とともに拳拳服膺して、咸其徳を一にせんことを庶幾う。」
教育勅語抜粋訳
【天皇の歴史観】
私、天皇が振り返って考えてみるに、神武天皇の建国は大変な偉業であり、歴代の天皇は道徳の確立に励まれていた。
また国民も公的には忠義であり、私的には孝行であった。そんな皆が、心を合わせて美しい日本の姿をつくってきたのは、
我が国の最も素晴らしい所である。教育というものも、この部分に由来しているのだ。
【国民への命令】
国民達よ。父母を大切にし、兄弟や夫婦と仲良くせよ。友人とは信頼を持って付き合え。自分を謙虚にして、人々とは博愛の心で付き合え。
学問を習い、技術を身に付けよ。知識を深め、そして道徳を高めるだけでなく、一歩進んで、世の中の役に立ち、世界で活躍するのだ。
道徳や法律を尊重し、大事が起これば迷う事なく公の為に働け。
そのようにして、天地の続く限り、永遠に繁栄する日本国をつくってゆくのだ。以上の事を実行する者は、立派な国民となるだけではなく、
御先祖様が立派であったことをも証明できるのだ。
【結びの言葉】
以上の言葉は、歴代天皇が教え伝えてきた命令である。
私やその子孫である天皇も国民も、区別なくこれを守らなければならない。
この教えは、どんな時代に当てはめても間違っておらず、どんな国に見られても恥ずかしくなく、立派な教えである。
私も国民も常に心掛けて、同じように立派になるよう、切に希望する
↑この教育が有ったからこそ一つのエピソードがある
前出になるが
(国境を越えた恋そして・・・・・)より
金貨は明治32年製、直径2センチの10ルーブル金貨で、表面にロシア皇帝ニコライ2世の肖像が描かれている。昭和60年の松山市の調査で出土し、2010年1月に人物名の存在が確認された。


2010.2.10 02:17
松山城二之丸跡で出土したロシア金貨の裏面にあったロシア人青年将校と日本人名とみられる文字の調査について、松山市は9日、金貨に刻まれた日本人名が「竹場ナヲ」という看護婦だった可能性が高いと発表した。
当初、金貨に刻まれた2人の人物名を「タチバナカ」「コステンコミハイル」と判読したが、「タチバナ」の「チ」を「ケ」と読み替えることが妥当と判断した。
市によると日露戦争当時、松山には捕虜収容所があり、二之丸跡の陸軍病院では捕虜の医療が行われいた。当時の新聞には竹場さんが看護婦として勤務したことを示す記録が残っている。また、新聞には竹場さんを「竹場ナカ」と記載した記事もあり、金貨の文字と竹場さんの関連が深いとみている。
竹場さんについて詳細は不明だが、中村時広市長は「国を越え、許されない恋があったのでは」と思いを巡らせていた。
敵国の関係・・・それでも恋は芽生える。なんとも言えぬロマンがある
「戦争」はやるべきでないですね
日露戦争は1904年(明治37年)に没発した大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満州南部を主戦場として発生した戦争であるが、戦争の決着をつけたのは日本海戦であった。
ロシアのバルチック艦隊と日本軍連合艦隊が日本海において激突した。日本軍連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の指導のもと歴史的大勝利を収めた。
さて、この日本海戦でロシア側は壊滅的打撃を受けるのだが、戦死者は4545人、捕虜は6106人でこの日本軍に捕虜となったロシア軍人が日本でどんな扱いを受けたか?
日本各地に捕虜収容所があったのだが、松山にあった収容所を例に取ると、食事は日本の軍人よりいいものが与えられ、彼らの嗜好に合うようパン、バター、紅茶や肉類が出された。最初は満足していた捕虜が、食事をまずいといい出すと西洋料理のコックの指導を仰いで料理が提供された。中には収容所の食事に満足できず個人でコックを雇い入れて料理を楽しむセレッキー予備海軍中佐のような輩もいた。
さらに、収容所側では、将校には50円、下士官には15円のお小遣いを支給していた。
さらに、さらに、捕虜の外出は自由で、海水浴をするため列車の定期券を買いこんで連日出かけるものも多数いた。また、彼らは冬場には道後温泉に競うように通った。
■ハーバート・G・ポンティング=イギリス人。1910年(明治43年)にスコット大佐の第二次南極探検隊に加わり記録写真を撮った写真家。1901年(明治34年)~1902年(明治35年)来日。日露戦争にも従軍。
「英国人写真家の見た明治日本」より
プラットホームに立っていると、そこにロシア軍の捕虜を満載した列車が到着した。乗っていた捕虜の全員が戦争から開放された喜びで、大声で叫んだり歌を歌ったりしていた。・・・反対の方向から別の列車が入って来た。それは日本の兵士を満載した列車で、兵士達は前線に行く喜びで同じように歌を歌っていた。
ロシア兵と日本兵はお互いの姿を見るや否や、どの窓からも五、六人が頭を突き出して、皆で歓呼の声を上げた。ロシア兵も日本兵と同じように懸命に万歳を叫んだ。列車が止まると日本兵は列車から飛び出して、不運?な捕虜のところへ駆け寄り、煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、その頬にキスしようとする者さえいた。私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった。
(中略)松山で、ロシア兵(捕虜)たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。寝たきりの患者が可愛らしい守護天使の動作の一つ一つを目で追うその様子は、明瞭で単純な事実を物語っていた。
何人かの勇士が病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。ロシア兵が先頃の戦争で経験したように、過去のすべての歴史において、敵と戦った兵士がこれほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。それと同時に、どこの国の婦人でも、日本の婦人ほど気高く優しい役割を演じたことはなかったのではあるまいか。
このような日本人の態度は教育勅語の道徳教育から成せる事と考えられる
日露戦争時同様、後の第一次大戦時下においては陸海軍とも国際法を厳しく守り、捕らえたドイツ軍俘虜は丁重に扱った。青島で捕獲した俘虜約4,700名は徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、ドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本人に伝えられた。
ベートーベンの「第9」はこのときドイツ軍俘虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。ドイツに帰還した元俘虜はこのときの扱いに感謝し、「バンドー会」を結成している
後にヨーロッパの戦勝国は世界の秩序をもとに戻そうとパリで講和会議を開いた。それぞれの国にはそれぞれの思惑があったが、一致していたのは、日本とアメリカからの申し入れには耳を傾けよう、という姿勢だった。
■レジナルド・カーニー=アメリカ人。歴史学者。黒人学専攻。ハンプトン大学助教授。より
ウィルソン大統領は、世界秩序回復のための十四カ条を手に、パリに乗り込んだ。彼がまず唱えたのは、国際法と国際秩序の確立であった。日本の代表団は、ウィルソンが出せなかった十五番目の提案を持って講和会議に出席した。「わが大日本帝国は、国際連盟の盟約として、人種平等の原則が固守されるべきことを、ここに提案する」。これこそが、いわゆる十五番目の提案であった。……人類平等の実現をめざしていた日本と、そうでなかったウィルソン、その差がここに出たといってもよいだろう。
もし日本のこの十五番目の提案が実現されていれば、アメリカ黒人にとって、おもしろいパラドックスが生じていたかもしれない。……アメリカ黒人がほかの連盟国の人間と同じように、民主的に扱われるためには、アメリカ以外の外国に住まねばならなかったはずである。そんなパラドックスが生じていたかもしれないのだ。……「おそらく世界で最も有望な、有色人種の期待の星」、それが日本であるという確信。日本はすべての有色人種に利益をもたらすという確信があったのだ。それは、たとえ一つでも、有色人種の国家が列強の仲間入りをすれば、あらゆる有色人種の扱いが根本的に変わるだろうという、強い信念によるものだった。……全米黒人新聞協会は、次のようなコメントを発表した。「われわれ黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を闘わせている日本に、最大の敬意を払うものである」「全米千二百万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」。
(引用者注:日本が提出したこの「人種差別撤廃法案」の投票結果は賛成17、反対11であったが、委員長を務めていたウィルソンが、かような重要案件は全会一致でなければいけないとして、不採択を宣言した)
日本が連合国5大国の一国となり、戦後にヴェルサイユ条約により山東省の権益と、アメリカ領フィリピンとハワイの間に位置するパラオやマーシャル諸島の統治権を得たことや、シベリア出兵を続けるなどアジア太平洋地域においてアメリカの利権に影響を与え出したことに対して、アメリカ国内で日本に対する脅威論が支持を受けた他、これに後押しされた人種差別的指向を持つ諸派が「黄禍論」を唱え、その結果日本からアメリカへの移民が禁止されるなど、第一次世界大戦終結後に日本とアメリカの関係は悪化することとなった。
さらにアメリカは、日本を5大国の一国に押し上げる原動力の1つとなった日英同盟を妨害すべく、太平洋における領土と権益の相互尊重と、諸島における非軍事基地化を取り決めた「四カ国条約」を提唱し、1921年には日本、アメリカ、イギリス、フランスの間で同条約の締結に成功し、同時に日英同盟は解消された。この結果日本は国際的に孤立し、その後日本は英米との対決姿勢を取ることを余儀なくされ、混沌とした時代を迎え大東亜戦争と突き進むのであった。
戦後の荒廃から立ち上がった日本
それは、まだ戦前の教育が体に染みた先輩達の努力の賜物と言っても過言でないだろう
時代は我々そして子供達へ・・・日本の文化の伝統と独自性を持つ教育がなくなり個人主義が。
今後の日本はどこへ
最後に教育とはマインドコントロール似たもので戦後一部隣国の教育は日本を敵視した教育が行われ今外交に於いてもその影響が有ると考えられる
しかし日本の占領下に有った国の中でも占領時日本の政策に異を唱えず親日もある事を忘れてはならない。