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軽CARによる奈良・大阪・京都めぐり

軽CARで3日間(2/5~2/7)に及ぶ1383km旅は無事に終わった
奈良に有る磨崖仏として彫りつけられている小夫の庚申塔と近畿地方に古くからある有名な大阪四天王寺の庚申堂、小泉庚申堂(大阪と奈良の間)と京都の八坂神社にある「庚申堂」を訪ねる目的

2/5午後7時40分に群馬県太田市の自宅を出発
普通タイヤ夜間の走行なので長野自動車道や中央自動車道を避け関越自動車→圏央自動車あきるのIC→一般国道→東名厚木ICへ東名自動車道→伊勢湾岸自動車道→東名阪自動車道→名阪国道で奈良県桜井市へ
当日気象は荒れて東名阪自動車道→名阪国道は雪模様・・・無事翌日午前4時には桜井市に道の駅にて仮眠を3時間程とり目的地へ向かう

近畿地方へ長距離は意外にも楽しい軽CAR(軽CARの高速走行100km以上は風やトラックの風圧に恐怖を感じる事があるが・・・)目的を探す場合狭い路地や山道はこの上なく楽だ。
先を急がずゆっくり移動すれば軽CARの本領発揮ともなるだろう。驚く事に奈良までの燃費は仮眠時(3時間アイドリング)を含め15.2km/ℓをマークした

奈良の小夫から狭い舗装林道を抜け大和群山へ向かう途中(眼下に見える町は天理市)

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大和群山の小泉庚申堂を訪ね近くに有る法隆寺へ

法隆寺は、30年以上前中学修学旅行で訪ねて以来で息子はまだ記憶に新しいようだ
大宝蔵院は
百済観音堂を中心とする東西の宝蔵には、有名な夢違観音像(白鳳時代)・推古天皇御所持の仏殿
と伝える玉虫厨子(飛鳥時代)・蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)
をはじめ、百万塔や中国から伝えられた白壇造りの九面観音像・天人の描かれた金堂小壁画など、
わが国を代表する宝物類を多数安置してる。
この歳になり改めて拝観し感動を覚える時間だった

法隆寺の五重塔
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法隆寺を後に大阪四天王寺の庚申堂へ
その後、京都の八坂神社・庚申堂の予定だが、息子の提案にて先に「たこ焼 いっちゃん」へ向かう

関西テレビ放送 [ 番組 よ~いドン! ]で となりの人間国宝さん に認定されたオヤジさんを訪ねる

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この日京都は底冷えのする寒さで時折雪がちらつき
群馬方面では夜から雪の予報で帰りの帰路が心配・・・・前日交換したタイヤはノーマルタイヤで雪道は不安。。

オヤジさんの親友(以蔵ちゅん)からカーショップの場所を聞きスタットレスタイヤを購入しに行く
京都にタイヤを買いに来たのか?・・・・・(笑

ノーマルタイヤは車に積み4時頃タイヤ交換を済ませ「たこ焼 いっちゃん」に戻る
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八坂神社は次の楽しみに・・・・・
宿は近くの馴染みの宿へ
翌日オヤジさんに挨拶し午前10時頃京都を発ち帰路はタイヤも冬用で中央高速経由で地元北関東群馬へ
帰宅は思ったより早く午後6時前に到着1383km旅は無事に終わった。





戦国時代の庚申塔
この時代公家や守護大名・戦国大名たちが「守庚申」として庚申の行事をおこなってたが、庶民の間にも
次第に庚申信仰が浸透してきて、16世紀には各地で庶民による庚申塔の造立が進みだした
ただこの戦国時代の早い時期の庚申塔は、中心に捉える本尊は、阿弥陀如来・地蔵菩薩・大日如来あるいは、
阿弥陀三尊など各種で、それらが彫像や文字、種子で彫られ、猿や鶏、日や月等、主尊として青面金剛・庚申文字はまだ現れない
この古い庚申塔は比較的奈良県内に多く見られ長谷寺への参道として早くから賑わった初瀬(はせ)
街道沿いにある奈良県桜井市小夫(おぶ)には、近年道路改修で道幅の拡張に伴い、かつての崖も開削され
磨崖仏として彫りつけられてた庚申塔も今は道路の中央に大きな岩の塊として遺されてる
二つの塔の前には榊や花が供えられ今も続く土地の人の信仰も偲ばれる

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街道に沿って並ぶ二基の大きな自然石の庚申塔は何れも「南無阿弥陀仏」の名号が中心に彫られ
左右に「庚申供養」「天正十一年九月十五日(?)」と刻まれており、一基には少し離れて地蔵菩薩(?)の
小像が彫られてる

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こうして、江戸時代初期に向けて庚申信仰が、供養塔としての「庚申塔」を造立する風習を生み出す
と共にこの風習が各地にひろまり、今日私たちの身近に有る庚申塔がみられるようになる。


時は江戸時代に向かい講が組織され・・・
庚申堂
中国の神仙思想から道教につながる「三戸(さんし)の虫」の難を避けることから始まった上流社会での「庚申守」は、室町時代頃から庶民の世界に浸透するとともに、守庚申としての集まりが次第に「庚申待」「猿待」と呼ばれるようになった
この庶民の世界に入り込むのは修験道などの行者が各地にもたらしたと言われ、それらと併せて仏教ともつながって行く
室町時代後期から江戸時代になり、各地に庶民の講が組織されその拠点ともなったのが主な地域にできた「庚申堂」とも考えられる。
特に江戸時代に入る頃からはこの「庚申堂」への参詣者が増えたり、仏教とつながる「庚申縁起」なども発行され、流布すると日頃の生活が地縁的な面が強い庶民の間では、農民における「作神」・「田の神」信仰などと結ばれながら次第に地縁的な集まりを中心的にして村の幾つかの「講」が組織され、庚申信仰はこの「講」が主体となり展開するようになる
庚申信仰の仏教的色彩はさらに拍車がかかり、今も賑わう庚申堂の周辺には庚申信仰の一端を垣間見ることができる
古くからの「庚申堂」として有名なのは、大阪大阪四天王寺庚申堂・大和郡山の小泉庚申堂・京都八坂の庚申堂などがある

江戸時代には日本三庚申として大阪四天王寺庚申堂・大和郡山の小泉庚申堂・八坂庚申堂に江戸の
入谷庚申堂(現存しない)を挙げ「江戸名所図絵(文政十二ねん=1829)」に紹介された
「寅さんの男はつらいよ」の映画で有名になった東京葛飾柴又の帝釈天(経栄山題経寺)もその一つ


大阪四天王寺庚申堂
四天王寺南大門から南に下った所にある
付近には「こんにゃく」屋さんが多く「こんにゃく」は腹の中の砂を洗い流す事と重なって
三戸の虫を払うと信じられてたようだ。
この庚申堂は起源は不明だが・・室町末期には既に存在したと言われてる
寺伝では、「本邦最初庚申尊」として全国の庚申堂もここから勧請されて分身されたものが多いと伝えられる
この庚申堂所蔵の「延宝八年1680銘」の庚申起源は書類の中でも権威のあるものとされ、全国に広まったとも言われてる

青面金剛を祀る庚申堂
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境内には付近にあった庚申塔が10数基納められ、特に三猿と二鶏だけの初期の庚申塔が目につく
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小泉庚申堂
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大和郡山市にある天台宗寺院の光輪院には「一国一文字庚申堂」として有名な小泉庚申堂がある
境内の庚申さまに「お百度参り」で願をかけた人が多かったと思われる笠付の「ウーン」の種子と
「庚申百度石」の文字が刻まれてる石柱が建ってる
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ここでも毎年、初庚申から納め庚申まで六度乃至七度の庚申縁日の催しが行われ
本堂には、内陣と外陣を仕切る欄間の下に近郷在住参詣者が奉納する「くくり猿」が有名
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近畿地方に於ける庚申宗教(民間宗教)の旅を終え
今後の北関東庚申塔発見に一層意味が増した気がする

今現在はその民間宗教が消えようとし・・
有る意味民間宗教は民間道徳として生き続けた。と言っても過言ではないだろう


寒さに負けR1200RT却下・・・

当初バイクで行こうと・・・・
しかし、道中の安全を考えると手軽で早いバイクはこの時期あまりにも危険
普通自動車で行けば良いのだが・・・・あえて軽CARでと考えた変わり者
(今日も寒い朝フロントガラスは真っ白)
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タイヤも交換時期だったので早速替えて準備OK

寝袋でも積んで一人ゆっくり旅をと思ってたら息子も行きたいらしい・・・・
そんな訳で息子が学校から帰ったら出掛けよう。


目的
◎奈良県桜井市小夫の庚申塔
天正11年(1583年)賎ケ岳の戦…秀吉、柴田勝家を破る年
庶民の間に庚申信仰が浸透し始めた時代 この早い時期の庚申塔は、中心に捉える本尊は、阿弥陀如来・地蔵菩薩・大日如来あるいは、阿弥陀三尊など各種で、それらが彫像や文字、種子で彫られてる
小夫の庚申塔は、磨崖仏として彫りつけられていた庚申塔。近年道路改修で道幅の拡張に伴い、かつての崖も開削され道路の中央に大きな岩の塊として遺されてる

後の庚申待や講に由来する庚申堂
◎大阪四天王寺の庚申堂または、小泉庚申堂(大阪と奈良の間)


先人の人達の民間宗教には多様な要素を含み日本古来からの民族的宗教で庚申塔を造立した
○道教でいう「三戸(さんし)の虫」を封ずるため
○仏教思想に基づいて現世・来世の安楽を願うため
○神道思想によって猿田彦神・道の神に対する信仰による
○陰陽道思想に基づいてる
○「作神・田の神」など農民が古来から持つ五穀豊穣を始め諸々の祈願を込めて祀る風習と重なっている
が挙げられる庚申塔

庚申堂
中国の神仙思想から道教につながる「三戸(さんし)の虫」の難を避けることから始まった上流社会での「庚申守」は、室町時代頃から庶民の世界に浸透するとともに、守庚申としての集まりが次第に「庚申待」「猿待」と呼ばれるようになった
この庶民の世界に入り込むのは修験道などの行者が各地にもたらしたと言われ、それらと併せて仏教ともつながって行く
室町時代後期から江戸時代になり、各地に庶民の講が組織されその拠点ともなったのが主な地域にできた「庚申堂」とも考えられる。
特に江戸時代に入る頃からはこの「庚申堂」への参詣者が増えたり、仏教とつながる「庚申縁起」なども発行され、流布すると日頃の生活が地縁的な面が強い庶民の間では、農民における「作神」・「田の神」信仰などと結ばれながら次第に地縁的な集まりを中心的にして村の幾つかの「講」が組織され、庚申信仰はこの「講」が主体となり展開するようになる
庚申信仰の仏教的色彩はさらに拍車がかかり、今も賑わう庚申堂の周辺には庚申信仰の一端を垣間見ることができる
古くからの「庚申堂」として有名なのは、大阪大阪四天王寺庚申堂・大和郡山の小泉庚申堂・京都八坂の庚申堂などがある
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このように中国からの民間道教や仏教の考え方が溶け合って進むうちに、江戸時代中頃から神道の
「道の神」とされる「猿田彦神」の信仰が加わり、庚申信仰がますます複雑な様相をしめしていく





追記

資料豊かな境遇にて

幼少の頃から、日頃目にしてた庚申塔
田舎に生まれ、まだ小学校に上がる前の記憶が微かによみがえり、80歳になるお袋に電話を入れた
俺『俺が小さい頃、村では庚申塔にまつわる何か行事をしたかい?』
答えは昭和30年代までその集まりを隣組で行っていたそうだ・・・・・・
その後40余年以上は何も無く、ただ一回河川工事で庚申塔を移設する際におこなったと聞く

年月が過ぎ・・・人生の半分以上を過ぎた今、道に数多く残る庚申塔を見て興味を持ち調べ始めた
もっと早ければと思いつつ調べると我が郷土で30年間に及ぶ歳月を費やし足利市内に於ける
庚申塔2300基以上の調査を続けられ、これを優しく敬虔な目で学問的に説かれた
(我が母校の田村 允彦先生)著の足利の庚申塔の本があった

今回の近畿地方に行き新たに一つの始まりとしたい
そして先代達の足跡 庚申塔・道祖神(石仏)風と共に探訪の整備を



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今まで巡る庚申塔は数多いが精査が十分に済んでないのが殆ど・・・・
↓次回はこれを精査しよう


主尊には文字と像が刻まれ、像に関しては青面金剛像の他「如来」「観音」「菩薩」等がある

今回の小さな発見とは、推測であるが群馬県太田市近辺しかない庚申塔である。と言っても過言ではないだろう

発見場所は太田市金山近辺で二対。主尊は袈裟を着た僧侶
上側には日と月と雲 中段に鳥 下段には2拝猿 庚申塔特有の彫り物

金山大光院の近くにある庚申塔 金山山麓にある庚申塔

太田市金山の大光院

大光院は、慶長18年(1611)春、徳川家康によって一族の繁栄と始祖新田義重を追善供養するために開かれた浄土宗の寺で、開山には芝増上寺の観智国師の門弟で四哲の一人といわれた呑龍上人が迎えられました。

 上人は、弘治2年(1556)4月、武蔵国埼玉郡一の割村(埼玉県春日部市)に生まれ、元和9年(1623)8月9日、大光院で入寂した名僧です。

 大光院に入山した上人は、看経・講義・説法などに力を尽くしたため、上人の徳を慕う学僧が大光院には多数集まり、周辺農民も上人の教えを受け入れたので、寺運は栄えました。一方、乱世後の人心は乱れ、天災等の影響で生活は困難を極めていたため、捨て子や間引きなどの非道が横行していました。上人は、その非道を憂い、捨て子や貧しい人々の子供を弟子という名目で寺に受け入れ、寺の費用で養育いたしました。このため、「子育て呑龍」と呼ばれ、今に篤い信仰を集めております(太田市HPより)

これは正に民間宗教が融合した結果で主尊は他に類を見ない呑龍上人の像で有るに違いない

大光院
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金山山麓に有る浅間神社
神社に合祀されてる


では行って来ます

春を待たず奈良へ行こうか・・・R1200RTで?

この時期にバイクで西へと企む親父。
北関東から近畿地方への旅は辛い中央高速は使えず東名高速経由となる
『箱根や関が原は大丈夫だろうか・・・・?』
その気になれば行けるに違いないと。想像しながら色々な事を考える
勿論バイクなら単独予定。
去年11月21日~22日にかけて息子のVTR250とT氏のFJR1300の3台で京都へ向かい、冷たい雨にも遭遇せず無事終り旅から2ヶ月が過ぎ先日北関東では珍しく雪、バイク通勤は諦め最近お気に入りの軽CAR(スバルサンバー)で帰宅し翌日には雪は止んだが寒い冬に逆戻りだ(通勤途中)
そうだ!進学も決まり学校授業が少なくなった息子とサンバーで行こうか・・・商用車なので任意保険も年齢制限が無い。(運転させられるので親父は楽だ・・・・)

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でも・・・やっぱりコイツと行こうか。。。

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何れにしても1泊2日の工程となる
まず初日京都へ向かい|| KTV || 関西テレビ放送 [ 番組 よ~いドン! ]となりの人間国宝さんに認定されたオヤジさんを冷やかしに・・・(笑


その足で奈良へ・・・・

奈良行きを志した発端は親父の郷土で30年間に及ぶ歳月を費やし足利市内に於ける庚申塔2300基以上の調査を続けられ、これを優しく敬虔な目で学問的に説かれた(我が母校の田村 允彦先生)著の足利の庚申塔の本からである

序文より
はや、敗戦後五十六年余を数えるが、その間祖国日本は大きく変わった
政治も経済も社会もそして文化も。勤勉な日本国民は虚脱混迷の中によく立ち上がり、見事に経済復興を成した。が、生活環境の激変は古来からのよき歴史的風土を大きく破壊し、かけ替えのない日本民族の歴史遺産や伝統文化を失わせしめた。
その一つに庚申のまつわりがある。
古代からの庚申の行事は中世には庚申信仰が次第に行われ、近世に入っては庶民に及び日本全国に広まり、家内安全・五穀豊穣などあらゆるご利益願うまさに国民的信仰となった。が、この伝統的信仰も漸く衰え、いまやその歴史を示す「庚申塔」は路傍に風化し、その存在さえも危うくなっている


平安貴族の「庚申の御遊」から鎌倉時代もほぼ同じで公家や上級武士の間で行われ、特に武家社会の様子は「吾妻鏡」などに記録されてる。庚申の夜の催しは京都のそれに倣っていたと考えられる
また、「吾妻鏡」巻三十一の嘉禎三年(1238年)3月9日の守庚申には足利義氏も参列してる事が記載され続く室町時代も「庚申会」が催されていたらしく多くの書物に残る、ただいつ頃から判然としないが、庚申の夜の集まりが庚申会や守庚申などの表現に対して「猿待」と言う呼び方も出て来たようでこの頃には、上流階級だけで無く庶民の間にも広がって行った様子が窺われる。
『庚申信仰』(平野実著、角川選書、1969)には東京都練馬区に有る板碑が紹介され
「長享二年(1488)戊申十月廿九日」の紀年銘「奉申待供養結衆」の銘、僧侶1名と造立者13名と併せマンの種子が刻まれ、庚申塔関係で最古の石造物とされてる
この長享二年の頃には各地で土一揆が起こり、とくに加賀の一向一揆が前年から起こり応仁の乱以降戦国の世に移った世情不安な時代で、神仏に救いを求める庶民の動きも察せられる
戦国時代には、次第に庶民の間にも浸透し、16世紀には各地で庶民による(石板を含む)造立が進み出した。ただこの早い時期の庚申塔は、中心に捉える本尊は、阿弥陀如来・地蔵菩薩・大日如来あるいは、阿弥陀三尊など各種で、それらが彫像や文字、種子で彫られてる。この古い庚申塔は、比較的奈良県内に多い。
奈良県桜井市小夫の庚申塔
磨崖仏として彫りつけられていた庚申塔。近年道路改修で道幅の拡張に伴い、かつての崖も開削され道路の中央に大きな岩の塊として遺されてる
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奈良へ行きたいこの目で見たいそんな単純な親父だ・・・・






20分の距離スーパーシェルパで出かけようと思いきや・・・寒さに負け車で移動

行き先は足利市内に有る徳蔵寺
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千庚申塔が奉納されてる御堂

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希有な千庚申塔(栃木県指定民族文化財)造立寛政12年(1800) お寺の境内外にあり近年剥離も見え出した為今は境内の御堂に奉納されてる
コンデジの撮影の為・・・全体が撮影出来ずに外の写真を添える(左)
総高2メートル90センチ 
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(正面)軸部に千庚申の表記と併せて「庚申」232(左側256 後側256 右側256)の文字が千個彫られてる 

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青面金剛彫像が塔身に示され月・日・二童子・夜叉(正面)

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首部に青面金剛真言の内「オン・ディ・バ・ヤ」の種子(正面)

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基壇に三猿・二鶏(正面)

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塔身に夜叉二体(左側)

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首部に正面に続く青面金剛真言の内「キシャ・バン・ダ・バン・ダ」の種子(左側)

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基壇に銘文(左側)(後側)(右側)と続く(漢文の素養が全く有りませんので後に資料からアンチョコしてこのログへUPします・・・涙)
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塔身中央に「ウン」の種子 右に「寛政十二年庚申年」左に「十二月庚申日建之」(後側)

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首部に左面に続く青面金剛真言の内「カ・カ・カ」の種子(後側)

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塔身に夜叉二体(右側)

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首部に後面に続く青面金剛真言の内「ソワ・カー」の種子(右側)

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春を待たずして奈良へ・・・・?

昔の道徳教育・・その足跡を辿り

↓過去のブログ忘れ去られつつ http://kasehikaru.blog121.fc2.com/blog-category-10.htmlより


繰り返す歴史の中で人間同士の繋がりはグローバルになり地球規模となった

基本的に人は一人では生きられず繋がりの中で生きて行かなければならない
その過程に於いて様々な競争や争いも生じる場合も・・・・・
しかし、人間で有る以上人種を問わず必ずその境遇に有った道徳が有る。
万人が子々孫々の幸福を願うから当然の事だろう
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日本人は明治維新以前、多種多様な道徳教育環境を持ってた(現代でも神社やお寺に向かう初詣はその名残とも言える)教育勅語以前日本の神道と仏教(陰陽道・道教を含む)は融合しあう時代が続き民間宗教が盛んに行われてた

例えば庚申塔に見る民間宗教これは
旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡って、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三し(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われてた。寿命が縮まっては大変!この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごす。日本では既に10世紀ごろには盛んだったようで、『枕草子』、『大鏡』などに記述があり、この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで大流行した。

 身を慎むことから始まり、徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていき。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもあった。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔で、長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻だ。


庚申待と称される江戸時代の民間宗教から民間道徳教育が自分たちによって互いに道徳を育んだとも言える
その庚申待により3年18回の行事を経て庚申塔が建立され
碑面にはさまざまな主尊が登場し多くの主尊が塔面に刻まれている。例えば青面金剛など代表格から
如来であるが、釈迦・薬師・阿弥陀・大日。菩薩では聖観音・馬頭観音・如意輪観音などの観音をはじめ、勢至や地蔵・六地蔵などである。明王では不動や倶利迦羅があり、天部では帝釈天は無論のこと、弁才天や仁王、その他に閻魔・聖徳太子・双体道祖神があると言われる。(北関東は自然石の文字碑面が多い)
形状に関しても様々な姿で現れて(狛犬や鳥居、など等)

↓先日ツーリング中に目を引いた庚申塔は千葉県野田市に多い猿田彦太神と判明
DSC02786_R.jpg 庚申塔は多種多様な姿で現れ、その地方により個性がある

庚申塔の彫り文字に(講中)の文字が彫られてる場合が多く
起源は、文明年間(15世紀)に浄土真宗 本願寺派が布教の手段としてつくった末寺を中心 とした寄り合いの講(講は、本来は仏典を講説す る僧衆の集会を意昧する。転じて信仰行事とそれ を担う集団をさし、さらに転じて共通の利益のた めの世俗的な行事とその集団をさすようになっ た)
江戸時代には民間信仰を白分らの共同生活の基盤の中に入れ、 相互扶助の美風を育てた言っても過言ではないだろう?

忘れ去られつつ

繰り返す歴史の中で人間同士の繋がりはグローバルになり地球規模となった

基本的に人は一人では生きられず繋がりの中で生きて行かなければならない
その過程に於いて様々な競争や争いも生じる場合も・・・・・
しかし、人間で有る以上人種を問わず必ずその境遇に有った道徳が有る。
万人が子々孫々の幸福を願うから当然の事だろう



日本人は明治維新以前、多種多様な道徳教育環境を持ってた(現代でも神社やお寺に向かう初詣はその名残とも言える)教育勅語以前日本の神道と仏教(陰陽道・道教を含む)は融合しあう時代が続き民間宗教が盛んに行われてた

例えば庚申塔に見る民間宗教これは
旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡って、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三し(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われてた。寿命が縮まっては大変!この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごす。日本では既に10世紀ごろには盛んだったようで、『枕草子』、『大鏡』などに記述があり、この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで大流行した。

 身を慎むことから始まり、徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていき。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもあった。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔で、長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻だ。

交通手段や情報網が発達した現代、それぞれ生きる為の仕事の役割分担が更に細分化され個人主義が台頭し、情報重視の教育で情操教育は忘れられたかのようだ。
良き助け合う時代は忘れ去られつつ・・・・・・




そして、先日思わぬ発見にまた一つ心触れ合う良き時代をかいま見たような気がした


庚申塔及び大日如来像

 「庚申塔」と通称されている石造物は、重制石幢の一種で輪廻車孔付きである。銘文があり「奉造立六地蔵庚申供養朝原村本願弥左衛門人数四十七人也干時元亀二二(四)年癸酉八月吉日」と刻まれている。元亀4年(1573)に朝原村の弥左衛門以下47人の村人が庚申供養のために結集して造塔したものである。弥左衛門は、当時の深沢家の祖といわれており、彼を中心にして村の農民たちが宗教を媒介に結束している様子がうかがえる。
  庚申信仰は、道教から出てきた信仰で戦国期以降急速に広まっていく。元亀4年という年代は群馬県内でも最も早い時期の造塔である。それだけに貴重な文化財といえる。同所には、もうひとつ重制石幢があり、対をなしているがこちらには輪廻車孔はついていない。
  中央には、寛永6年(1629)に造立された智拳印を結ぶ丸彫りの大日如来像が安置されている。銘文には「鏡海上人囗囗大小旦那衆 奉造立大日如来尊囗囗現當二世処也 干時寛永六己巳今月日敬囗」と刻まれている。鏡海上人という僧を中心に大小旦那衆(当時の朝原村の農民たち)が結集して、村が末永く繁栄することを願って造立したものである。当時の朝原村の村民たちの信仰心と結束の固さがこの大日如来像の造立でも見られる。従来は庚申塔及び大日如来像は別個の目的で造立されたものが、後にあたかも一組で作られたかのようにまとめられた。

↑みどり市文化財HPより
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関東地方では最も古い庚申塔と言えるかかも?約436年前
形も近年の江戸時代の物とは違うが、この地方重制石幢の形が多く見られる
この年からおおよそ次の庚申の年にあたる60年後(実際には92年後)
多摩地方にも現存最古の造立年銘が明らかな庚申塔は、明暦2年塔(1656年)である。この層塔は、分布から考えて群馬県より移入されたと考えられる

この古い庚申塔は室町時代後期混乱戦国時代の物で北関東と室町時代(足利幕府)は深い繋がりが有り、15代将軍義昭が1573年(元亀4年/天正元年)に織田信長によって京都から追放されるまでの237年間を足利幕府が。

時はやはり混乱の時期であった。今現代、様相は違うが混沌とした混乱期だろうか?

一般庶民が助け合い何かをしようとする気持ちが今は忘れ去られつつ

この場所は時間の都合で精査出来なかったが後日またゆっくり来よう
庚申塔群(様々な民間宗教の跡が見受けられる)
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追伸・・・次回東北ツーリングの地はかなり大型な庚申塔が見られる所もあり、由利本荘地域では地蔵信仰が盛んで集落毎に多くの地蔵様が奉納されてるそうだ

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些細な発見

通勤途中の道脇に有る見慣れた庚申塔を見て、ふと思い当る

それは、先日行った京都の事だった。
近畿地方(丹波)において庚申信仰の遺物である庚申塔を野辺に見出すことはまれである事。

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先代の足跡 (HPより)
江戸時代まで、日本の神道と仏教は融合しあう時代が続いていましたが、慶応4年(=明治元年)に出た神仏分離令で、(「庚申待ち」・「お日待ち」)。仏教・神道・陰陽道・道教などが結びつきあった民間信仰は衰退して行ったと聞いてます。
中には今だにお寺や神社に庚申塚が合祀されたりしてます。しかし最初から合祀された考えと違う説も有り、明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を勧めた。よって後に神社やお寺に合祀された可能性も高い。
さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事等によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。
近年、私が幼少の頃、家の近くに立派な庚申塔群が有り、河川改良に伴い近くの墓地に移転したようです。
風雪と周囲の環境の変化に耐え、かろうじてその形を保ちながらひっそりたたずむ石塔や石仏これらは庶民の残した貴重な文化遺産と言えるでしょう
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↑お馴染みの文句ですがご勘弁を(笑)


庚申塔は庚申信仰のいわば記念塔
旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡って来る、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三し(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われてた。寿命が縮まっては大変!この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごし、身を慎むことから始まり徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていき、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でも有った。
この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔。

近畿地方で庚申塔を見かけることは少ない。それはたぶん、近畿地方では著名な寺社が比較的多い地域的事情から、雑行が禁じられなかったにせよ人々の関心は夜っぴて信心の灯をともすまでには至らなかったのだろう。
もっとも、大阪には四天王寺に庚申堂があり、洛中には八坂庚申堂がある。庚申信仰は存在するが、地域の寺院中心に行われていて人々の庚申信仰への関心は他の地域とはやや異なっているのかもしれない。


世間の不景気も身にしみ暇なこの頃。

まぁ、そんな訳で、以前じっくり行って見たかった場所へ・・・・・・

69年式HS1バイクでGO!

群馬県から足尾、日光へ続く国道122号線を進み県道沼田街道に入り黒保根村へ

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目的地の庚申塔群

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この地方には珍しい双体道祖神(長野県には多い)

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様々な形の庚申塔

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これも庚申塔なのか?3重塔であるが・・・・

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3重塔の上段を見ると月と日と雲が彫られてる。まさしく庚申塔である
そして一番下には庚申塔の文字が

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他の地方では見出す事の出来ない庚申塔だろうか?
その庚申塔群の中に、このような多重塔が合計3基ある
他を調べると・・・・・

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風化が激しく中段は彫られた様子は有るが見取れない
しかし最下段には鶏らしき彫り物が2対

庚申の日の翌日は「酉」の日となる。徹夜して翌日を待つ象徴として、酉を鶏で表したものだ。当時の日付変更は翌日の夜明け。日の出前でも鶏鳴を聞けば、すでに翌日という解釈も生まれる。
これも間違い無く庚申塔の証拠が取れた

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最後の塔は風化が一番酷く証拠の彫り物は見出せなかった

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この近辺(みどり市東町小夜戸地内)には石造五重塔と呼ばれ、みどり市指定重要文化財としてその5重庚申塔が有る
(元禄4年(1691年)造立、高さ312cm、形式は五重塔であるが、実際には庚申塔として造られ祀られたものだと思われる。東町(旧勢多郡東村)の庚申信仰の歴史を知る上で貴重な石塔文化財である。また、銅街道の道祖神であるという説もある。)http://www.city.midori.gunma.jp/bunkazai/azuma11.htmみどり市HPより

この風化し彫り物が見出せない塔も自分なりに庚申塔と確信する




そしてその石造五重塔に向かう

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庚申塔の証拠である月と日が刻まれてる

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自己満足をする親父(笑

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この地方にも特有な庚申塔が有る。。昔それぞれの地方で民間宗教が融合して多種多様な碑が建てられたが思いは皆一緒だったのだろう

素朴で優しい先代達の足跡を追ってみた

時がゆっくり流れた時代・・・・・・正反対の現代、忙しく時が流れ
そんな中に生きる親父は文明の力で帰る

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今日の一日

昨日は長女の公立高校前期入試試験だった
様子を女房から聞き大笑い!

息子は親父に似て無頓着な所が有り妹が何処の高校を受けるか知らなかった
期末試験で早帰りの息子は女房と買い物途中に試験を受けた長女を迎えに行く時の会話
息子『何処の高校を受けた?』
女房『桐生女子高』(隣市の公立である)
息子『ふん!!俺はどうせ馬鹿学校だよ・・・』珍しく嫉妬したらしい(笑)

おいおい・・・・・親父の母校じゃないかその馬鹿学校。。。。(母校よごめんなさい)
息子は親父に似たせいかどうも勉強が苦手。
そんな息子に勉強をしろと言った事が無い親父
むしろ職人でもなって人に好かれれば良いと思う無責任な親父
しかし職人ならばお金持ちにはなれないが、食い逸れはないと言う哲学を持つ親父・・・・

兎に角その息子の言動に大笑いをした一日の始まりだった

いつものように娘達二人は自転車に乗り中学へ
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息子も学校へ  親父もスーパーシェルパで出勤。。

まあ成績優秀ならば、なお良い事だ


さて1月2月は決算時期前で仕事も暇な時が多い
しかし・・・・世間の状況を考えると無頓着な俺でも少し頭が痛い

こんな時はろくな事を考えない・・・・馬鹿政治家やその他諸々
政治家をいくら批判してもこんな力の無い小さな親父じゃあ何にも出来ない
気持ちだけでも大らかに構え過ごすしかない・・・・・

願いは未来の子供達が安らかに生活出来る事を祈るばかりだ

ああ、先人達も同じ事を考えたのだろうな・・・・・
と思いきや、午後は放浪の旅へ出かけた。。。何でも良い安らげば・・・
長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻んだ庚申塔でも探しに行くか。。。そんな思いから、近所の散歩ツーが始まる

先代の足跡(HPより)
江戸時代まで、日本の神道と仏教は融合しあう時代が続いていましたが、慶応4年(=明治元年)に出た神仏分離令で、(「庚申待ち」・「お日待ち」)。仏教・神道・陰陽道・道教などが結びつきあった民間信仰は衰退して行ったと聞いてます。
中には今だにお寺や神社に庚申塚が合祀されたりしてます。しかし最初から合祀された考えと違う説も有り、明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を勧めた。よって後に神社やお寺に合祀された可能性も高い。
さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事等によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。
近年、私が幼少の頃、家の近くに立派な庚申塔群が有り、河川改良に伴い近くの墓地に移転したようです。
風雪と周囲の環境の変化に耐え、かろうじてその形を保ちながらひっそりたたずむ石塔や石仏これらは庶民の残した貴重な文化遺産と言えるでしょう

↑お馴染みの文句ですがご勘弁を(笑)

てな事でまずは手っとり早くお寺や神社に行ってみよ・・・・

意外と太田市は神社やお寺が多いのです。。

バイクで3分の東光寺 門前に馬頭観音や・・・・・
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奥の方に有りました 庚申塔。碑面は青面金剛
この地方は文字塔より像が現れる方が年代が古い(250年前位から)
風化して年代が読めません・・・・・時間をかけ眺めると意外と年代が解るが・・・・
月と日は見え金剛が邪鬼を踏みつけてるその下に二拝猿
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収穫・・・だ次行くべぇ~

はい30秒走って長念寺。門前を例幣使街道(天皇の勅使が日光参拝する際に通った江戸時代の街道)がある応永元年(1394)の開創。
中は幼稚園になってて入れない・・・・・物騒な世の中だから仕方ないか
人相の悪い親父なら尚更だなこりゃ・・・・でも園児の元気な挨拶にすっかり気を良くした親父(笑)
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庚申塔は見えなかったが(お日待ち)二十二夜、二十三夜の如意輪観音が有った
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次行くべぇ~
3分走って有名な大光院
徳川家康が始祖の新田義重の菩提を供養するために建てたもので 慶長18年(1613)に完成
流石に此処は民間宗教的な石仏は合祀されてないぞ・・・・
(そう言えば京都等のお寺も・・近畿地方では著名な寺社が比較的多い地域的事情から、雑行が禁じられなかったにせよ人々の関心は夜っぴて信心の灯をともすまでには至らなかったのかもなぁ~~)
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こちらが新田寺
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この上の彫刻が素晴らしい・・・コンデジの為ピントが網に(泣)
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次~2分走る・・・・金竜寺。。。なんかお寺周りになってねえか???

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此処は庶民信仰が合祀されてます

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次は路地に有る庚申塔

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そしてまた次~~ちょっと走る

大光院が関係してる庚申塔

主尊には文字と像が刻まれ、像に関しては青面金剛像の他「如来」「観音」「菩薩」等がある

これは推測であるが群馬県太田市近辺しかない庚申塔である。と言っても過言ではないだろう

発見場所は太田市金山近辺で二対。主尊は袈裟を着た僧侶
上側には日と月と雲 中段に鳥 下段には2拝猿 庚申塔特有の彫り物

金山大光院の近くにある庚申塔 金山山麓にある庚申塔

太田市金山の大光院

大光院は、慶長18年(1611)春、徳川家康によって一族の繁栄と始祖新田義重を追善供養するために開かれた浄土宗の寺で、開山には芝増上寺の観智国師の門弟で四哲の一人といわれた呑龍上人が迎えられました。

 上人は、弘治2年(1556)4月、武蔵国埼玉郡一の割村(埼玉県春日部市)に生まれ、元和9年(1623)8月9日、大光院で入寂した名僧です。

 大光院に入山した上人は、看経・講義・説法などに力を尽くしたため、上人の徳を慕う学僧が大光院には多数集まり、周辺農民も上人の教えを受け入れたので、寺運は栄えました。一方、乱世後の人心は乱れ、天災等の影響で生活は困難を極めていたため、捨て子や間引きなどの非道が横行していました。上人は、その非道を憂い、捨て子や貧しい人々の子供を弟子という名目で寺に受け入れ、寺の費用で養育いたしました。このため、「子育て呑龍」と呼ばれ、今に篤い信仰を集めております(太田市HPより)

これは正に民間宗教が融合した結果で主尊は他に類を見ない呑龍上人の像で有るに違いない

次~またお寺(汗)
走れ、走れ

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なんだかお寺周りになってしまいました(笑)

でも楽しかった バイクにも乗れたし!!
最後に記念撮影

仕事をさぼったアホな親父

デカイ写真で失礼(笑)・・・デブな親父が着膨れで放浪
赤城下しが吹く中、出掛けました・・・幾分風の無い所は暖かいこの頃。
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民間宗教と道徳

江戸時代まで、日本の神道と仏教は融合しあう時代が続いていたが、慶応4年(=明治元年)に出た神仏分離令で、(「庚申待ち」・「お日待ち」等様々)。仏教・神道・陰陽道・道教などが結びつきあった民間信仰は衰退して行った。

例に上げ庚申信仰とは
寿命を縮めないために? 江戸時代に大流行した民間信仰で
旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡って来る、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三し(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われてた。寿命が縮まっては大変!この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしす。
日本では既に10世紀ごろには盛んだったようで、『枕草子』、『大鏡』などに記述があり 
この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで大流行しました。

身を慎むことから始まり徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていき、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でも有った。
この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔。
長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻んだ


珍しい(五重塔の)庚申塔
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北関東(群馬)で良く見かける庚申塔
庚申塔には、さまざまな主尊が塔面に現われてくる。道教に源を発する庚申信仰は、日本で同化する過程で仏教の各宗派や神道・修験道、あるいは古来から伝えられた民間信仰(たとえば日待信仰や月待信仰)などの影響を受けて変容をとげてきた。特に仏教化が進み、庚申縁起が成立して礼拝本尊が説かれるようになり、供養塔の造立が広く行われると、それぞれの指導者がいろいろな主尊を登場させてくる。
また庚申講を指導する宗教家の宗派によって、例えば神道では猿田彦大神を、日蓮宗では帝釈天を主尊にしている
庚申縁起は、時刻によって異る本尊が礼拝され、そうした事情からみても庚申塔にいろいろな主尊が刻まれている。

庚申塔は塔面に『庚申』の文字や梵字で標示した「キリーク」「ウン」等がある
主尊が刻まれる場合 日と月と雲や鶏 猿(拝侍二猿や三猿)が刻まれたり主尊(青面金剛王)が邪鬼を踏みつけてる場合も有る 

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そして明治維新と共に、教育勅語が
これは、西洋の学術・制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したものである。もちろん、西洋文明にも宗教(キリスト教)を背景とした道徳教育は存在するが、それを直接日本人に適用するわけにもいかず、かといって伝統的に道徳観の基本として扱われてきた儒教や仏教を使うことも明治新政府以降の理念からすれば不適切であった。このため、伝統的な道徳観を天皇を介する形でまとめたものが教育勅語とも言える。こうした道徳観は、伝統的な儒教とは異なるものであり、江戸時代の水戸学からの影響が指摘されている。

日本の終戦となり
初期の連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の教育勅語改訂構想もあり、教育勅語の廃止は元々決定されていたものではなかったが、その後GHQは、廃止の方針を決めた。また、教育基本法の起案者の1人であった田中耕太郎も、教育基本法では教育精神的な規定を設けずに、教育勅語を初めとする文書類との棲み分けを図ろうとしていた時期もあるが、後に田中耕太郎は、自己の著書の中で、教育基本法が教育勅語の代わりとなったことを記してる

なお、教育勅語は、神聖的なとりあつかいや朗読が既に止められていたが、1948年6月19日に衆議院では排除、参議院では失効確認がされた

後に教育は学問だけの教育なり、間違った個人主義が台頭し
道徳は疲弊してしまったのだろうか?

物は豊かになったが精神面はどうか・・・・

贅沢な生活をしながら子供達の給食費を払わない親達・・・・等々

悲観的に成らず、まだまだ人らしい人達は大勢居るに違いない・・・・・そう信じよう

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2008年12月よりFJR1300Aから BMW R1200RTに乗換えました。
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