軽CARによる奈良・大阪・京都めぐり
- 2010/02/08 16:57
- Category: 庚申塔/石仏/庶民文化遺産
軽CARで3日間(2/5~2/7)に及ぶ1383km旅は無事に終わった
奈良に有る磨崖仏として彫りつけられている小夫の庚申塔と近畿地方に古くからある有名な大阪四天王寺の庚申堂、小泉庚申堂(大阪と奈良の間)と京都の八坂神社にある「庚申堂」を訪ねる目的
2/5午後7時40分に群馬県太田市の自宅を出発
普通タイヤ夜間の走行なので長野自動車道や中央自動車道を避け関越自動車→圏央自動車あきるのIC→一般国道→東名厚木ICへ東名自動車道→伊勢湾岸自動車道→東名阪自動車道→名阪国道で奈良県桜井市へ
当日気象は荒れて東名阪自動車道→名阪国道は雪模様・・・無事翌日午前4時には桜井市に道の駅にて仮眠を3時間程とり目的地へ向かう
近畿地方へ長距離は意外にも楽しい軽CAR(軽CARの高速走行100km以上は風やトラックの風圧に恐怖を感じる事があるが・・・)目的を探す場合狭い路地や山道はこの上なく楽だ。
先を急がずゆっくり移動すれば軽CARの本領発揮ともなるだろう。驚く事に奈良までの燃費は仮眠時(3時間アイドリング)を含め15.2km/ℓをマークした
奈良の小夫から狭い舗装林道を抜け大和群山へ向かう途中(眼下に見える町は天理市)

大和群山の小泉庚申堂を訪ね近くに有る法隆寺へ
法隆寺は、30年以上前中学修学旅行で訪ねて以来で息子はまだ記憶に新しいようだ
大宝蔵院は
百済観音堂を中心とする東西の宝蔵には、有名な夢違観音像(白鳳時代)・推古天皇御所持の仏殿
と伝える玉虫厨子(飛鳥時代)・蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)
をはじめ、百万塔や中国から伝えられた白壇造りの九面観音像・天人の描かれた金堂小壁画など、
わが国を代表する宝物類を多数安置してる。
この歳になり改めて拝観し感動を覚える時間だった
法隆寺の五重塔


法隆寺を後に大阪四天王寺の庚申堂へ
その後、京都の八坂神社・庚申堂の予定だが、息子の提案にて先に「たこ焼 いっちゃん」へ向かう
関西テレビ放送 [ 番組 よ~いドン! ]で となりの人間国宝さん に認定されたオヤジさんを訪ねる


この日京都は底冷えのする寒さで時折雪がちらつき
群馬方面では夜から雪の予報で帰りの帰路が心配・・・・前日交換したタイヤはノーマルタイヤで雪道は不安。。
オヤジさんの親友(以蔵ちゅん)からカーショップの場所を聞きスタットレスタイヤを購入しに行く
京都にタイヤを買いに来たのか?・・・・・(笑
ノーマルタイヤは車に積み4時頃タイヤ交換を済ませ「たこ焼 いっちゃん」に戻る

八坂神社は次の楽しみに・・・・・
宿は近くの馴染みの宿へ
翌日オヤジさんに挨拶し午前10時頃京都を発ち帰路はタイヤも冬用で中央高速経由で地元北関東群馬へ
帰宅は思ったより早く午後6時前に到着1383km旅は無事に終わった。
戦国時代の庚申塔
この時代公家や守護大名・戦国大名たちが「守庚申」として庚申の行事をおこなってたが、庶民の間にも
次第に庚申信仰が浸透してきて、16世紀には各地で庶民による庚申塔の造立が進みだした
ただこの戦国時代の早い時期の庚申塔は、中心に捉える本尊は、阿弥陀如来・地蔵菩薩・大日如来あるいは、
阿弥陀三尊など各種で、それらが彫像や文字、種子で彫られ、猿や鶏、日や月等、主尊として青面金剛・庚申文字はまだ現れない
この古い庚申塔は比較的奈良県内に多く見られ長谷寺への参道として早くから賑わった初瀬(はせ)
街道沿いにある奈良県桜井市小夫(おぶ)には、近年道路改修で道幅の拡張に伴い、かつての崖も開削され
磨崖仏として彫りつけられてた庚申塔も今は道路の中央に大きな岩の塊として遺されてる
二つの塔の前には榊や花が供えられ今も続く土地の人の信仰も偲ばれる



街道に沿って並ぶ二基の大きな自然石の庚申塔は何れも「南無阿弥陀仏」の名号が中心に彫られ
左右に「庚申供養」「天正十一年九月十五日(?)」と刻まれており、一基には少し離れて地蔵菩薩(?)の
小像が彫られてる


こうして、江戸時代初期に向けて庚申信仰が、供養塔としての「庚申塔」を造立する風習を生み出す
と共にこの風習が各地にひろまり、今日私たちの身近に有る庚申塔がみられるようになる。
時は江戸時代に向かい講が組織され・・・
庚申堂
中国の神仙思想から道教につながる「三戸(さんし)の虫」の難を避けることから始まった上流社会での「庚申守」は、室町時代頃から庶民の世界に浸透するとともに、守庚申としての集まりが次第に「庚申待」「猿待」と呼ばれるようになった
この庶民の世界に入り込むのは修験道などの行者が各地にもたらしたと言われ、それらと併せて仏教ともつながって行く
室町時代後期から江戸時代になり、各地に庶民の講が組織されその拠点ともなったのが主な地域にできた「庚申堂」とも考えられる。
特に江戸時代に入る頃からはこの「庚申堂」への参詣者が増えたり、仏教とつながる「庚申縁起」なども発行され、流布すると日頃の生活が地縁的な面が強い庶民の間では、農民における「作神」・「田の神」信仰などと結ばれながら次第に地縁的な集まりを中心的にして村の幾つかの「講」が組織され、庚申信仰はこの「講」が主体となり展開するようになる
庚申信仰の仏教的色彩はさらに拍車がかかり、今も賑わう庚申堂の周辺には庚申信仰の一端を垣間見ることができる
古くからの「庚申堂」として有名なのは、大阪大阪四天王寺庚申堂・大和郡山の小泉庚申堂・京都八坂の庚申堂などがある
江戸時代には日本三庚申として大阪四天王寺庚申堂・大和郡山の小泉庚申堂・八坂庚申堂に江戸の
入谷庚申堂(現存しない)を挙げ「江戸名所図絵(文政十二ねん=1829)」に紹介された
「寅さんの男はつらいよ」の映画で有名になった東京葛飾柴又の帝釈天(経栄山題経寺)もその一つ
大阪四天王寺庚申堂
四天王寺南大門から南に下った所にある
付近には「こんにゃく」屋さんが多く「こんにゃく」は腹の中の砂を洗い流す事と重なって
三戸の虫を払うと信じられてたようだ。
この庚申堂は起源は不明だが・・室町末期には既に存在したと言われてる
寺伝では、「本邦最初庚申尊」として全国の庚申堂もここから勧請されて分身されたものが多いと伝えられる
この庚申堂所蔵の「延宝八年1680銘」の庚申起源は書類の中でも権威のあるものとされ、全国に広まったとも言われてる
青面金剛を祀る庚申堂


境内には付近にあった庚申塔が10数基納められ、特に三猿と二鶏だけの初期の庚申塔が目につく

小泉庚申堂


大和郡山市にある天台宗寺院の光輪院には「一国一文字庚申堂」として有名な小泉庚申堂がある
境内の庚申さまに「お百度参り」で願をかけた人が多かったと思われる笠付の「ウーン」の種子と
「庚申百度石」の文字が刻まれてる石柱が建ってる


ここでも毎年、初庚申から納め庚申まで六度乃至七度の庚申縁日の催しが行われ
本堂には、内陣と外陣を仕切る欄間の下に近郷在住参詣者が奉納する「くくり猿」が有名

近畿地方に於ける庚申宗教(民間宗教)の旅を終え
今後の北関東庚申塔発見に一層意味が増した気がする
今現在はその民間宗教が消えようとし・・
有る意味民間宗教は民間道徳として生き続けた。と言っても過言ではないだろう
奈良に有る磨崖仏として彫りつけられている小夫の庚申塔と近畿地方に古くからある有名な大阪四天王寺の庚申堂、小泉庚申堂(大阪と奈良の間)と京都の八坂神社にある「庚申堂」を訪ねる目的
2/5午後7時40分に群馬県太田市の自宅を出発
普通タイヤ夜間の走行なので長野自動車道や中央自動車道を避け関越自動車→圏央自動車あきるのIC→一般国道→東名厚木ICへ東名自動車道→伊勢湾岸自動車道→東名阪自動車道→名阪国道で奈良県桜井市へ
当日気象は荒れて東名阪自動車道→名阪国道は雪模様・・・無事翌日午前4時には桜井市に道の駅にて仮眠を3時間程とり目的地へ向かう
近畿地方へ長距離は意外にも楽しい軽CAR(軽CARの高速走行100km以上は風やトラックの風圧に恐怖を感じる事があるが・・・)目的を探す場合狭い路地や山道はこの上なく楽だ。
先を急がずゆっくり移動すれば軽CARの本領発揮ともなるだろう。驚く事に奈良までの燃費は仮眠時(3時間アイドリング)を含め15.2km/ℓをマークした
奈良の小夫から狭い舗装林道を抜け大和群山へ向かう途中(眼下に見える町は天理市)

大和群山の小泉庚申堂を訪ね近くに有る法隆寺へ
法隆寺は、30年以上前中学修学旅行で訪ねて以来で息子はまだ記憶に新しいようだ
大宝蔵院は
百済観音堂を中心とする東西の宝蔵には、有名な夢違観音像(白鳳時代)・推古天皇御所持の仏殿
と伝える玉虫厨子(飛鳥時代)・蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)
をはじめ、百万塔や中国から伝えられた白壇造りの九面観音像・天人の描かれた金堂小壁画など、
わが国を代表する宝物類を多数安置してる。
この歳になり改めて拝観し感動を覚える時間だった
法隆寺の五重塔


法隆寺を後に大阪四天王寺の庚申堂へ
その後、京都の八坂神社・庚申堂の予定だが、息子の提案にて先に「たこ焼 いっちゃん」へ向かう
関西テレビ放送 [ 番組 よ~いドン! ]で となりの人間国宝さん に認定されたオヤジさんを訪ねる


この日京都は底冷えのする寒さで時折雪がちらつき
群馬方面では夜から雪の予報で帰りの帰路が心配・・・・前日交換したタイヤはノーマルタイヤで雪道は不安。。
オヤジさんの親友(以蔵ちゅん)からカーショップの場所を聞きスタットレスタイヤを購入しに行く
京都にタイヤを買いに来たのか?・・・・・(笑
ノーマルタイヤは車に積み4時頃タイヤ交換を済ませ「たこ焼 いっちゃん」に戻る

八坂神社は次の楽しみに・・・・・
宿は近くの馴染みの宿へ
翌日オヤジさんに挨拶し午前10時頃京都を発ち帰路はタイヤも冬用で中央高速経由で地元北関東群馬へ
帰宅は思ったより早く午後6時前に到着1383km旅は無事に終わった。
戦国時代の庚申塔
この時代公家や守護大名・戦国大名たちが「守庚申」として庚申の行事をおこなってたが、庶民の間にも
次第に庚申信仰が浸透してきて、16世紀には各地で庶民による庚申塔の造立が進みだした
ただこの戦国時代の早い時期の庚申塔は、中心に捉える本尊は、阿弥陀如来・地蔵菩薩・大日如来あるいは、
阿弥陀三尊など各種で、それらが彫像や文字、種子で彫られ、猿や鶏、日や月等、主尊として青面金剛・庚申文字はまだ現れない
この古い庚申塔は比較的奈良県内に多く見られ長谷寺への参道として早くから賑わった初瀬(はせ)
街道沿いにある奈良県桜井市小夫(おぶ)には、近年道路改修で道幅の拡張に伴い、かつての崖も開削され
磨崖仏として彫りつけられてた庚申塔も今は道路の中央に大きな岩の塊として遺されてる
二つの塔の前には榊や花が供えられ今も続く土地の人の信仰も偲ばれる



街道に沿って並ぶ二基の大きな自然石の庚申塔は何れも「南無阿弥陀仏」の名号が中心に彫られ
左右に「庚申供養」「天正十一年九月十五日(?)」と刻まれており、一基には少し離れて地蔵菩薩(?)の
小像が彫られてる


こうして、江戸時代初期に向けて庚申信仰が、供養塔としての「庚申塔」を造立する風習を生み出す
と共にこの風習が各地にひろまり、今日私たちの身近に有る庚申塔がみられるようになる。
時は江戸時代に向かい講が組織され・・・
庚申堂
中国の神仙思想から道教につながる「三戸(さんし)の虫」の難を避けることから始まった上流社会での「庚申守」は、室町時代頃から庶民の世界に浸透するとともに、守庚申としての集まりが次第に「庚申待」「猿待」と呼ばれるようになった
この庶民の世界に入り込むのは修験道などの行者が各地にもたらしたと言われ、それらと併せて仏教ともつながって行く
室町時代後期から江戸時代になり、各地に庶民の講が組織されその拠点ともなったのが主な地域にできた「庚申堂」とも考えられる。
特に江戸時代に入る頃からはこの「庚申堂」への参詣者が増えたり、仏教とつながる「庚申縁起」なども発行され、流布すると日頃の生活が地縁的な面が強い庶民の間では、農民における「作神」・「田の神」信仰などと結ばれながら次第に地縁的な集まりを中心的にして村の幾つかの「講」が組織され、庚申信仰はこの「講」が主体となり展開するようになる
庚申信仰の仏教的色彩はさらに拍車がかかり、今も賑わう庚申堂の周辺には庚申信仰の一端を垣間見ることができる
古くからの「庚申堂」として有名なのは、大阪大阪四天王寺庚申堂・大和郡山の小泉庚申堂・京都八坂の庚申堂などがある
江戸時代には日本三庚申として大阪四天王寺庚申堂・大和郡山の小泉庚申堂・八坂庚申堂に江戸の
入谷庚申堂(現存しない)を挙げ「江戸名所図絵(文政十二ねん=1829)」に紹介された
「寅さんの男はつらいよ」の映画で有名になった東京葛飾柴又の帝釈天(経栄山題経寺)もその一つ
大阪四天王寺庚申堂
四天王寺南大門から南に下った所にある
付近には「こんにゃく」屋さんが多く「こんにゃく」は腹の中の砂を洗い流す事と重なって
三戸の虫を払うと信じられてたようだ。
この庚申堂は起源は不明だが・・室町末期には既に存在したと言われてる
寺伝では、「本邦最初庚申尊」として全国の庚申堂もここから勧請されて分身されたものが多いと伝えられる
この庚申堂所蔵の「延宝八年1680銘」の庚申起源は書類の中でも権威のあるものとされ、全国に広まったとも言われてる
青面金剛を祀る庚申堂


境内には付近にあった庚申塔が10数基納められ、特に三猿と二鶏だけの初期の庚申塔が目につく

小泉庚申堂


大和郡山市にある天台宗寺院の光輪院には「一国一文字庚申堂」として有名な小泉庚申堂がある
境内の庚申さまに「お百度参り」で願をかけた人が多かったと思われる笠付の「ウーン」の種子と
「庚申百度石」の文字が刻まれてる石柱が建ってる


ここでも毎年、初庚申から納め庚申まで六度乃至七度の庚申縁日の催しが行われ
本堂には、内陣と外陣を仕切る欄間の下に近郷在住参詣者が奉納する「くくり猿」が有名

近畿地方に於ける庚申宗教(民間宗教)の旅を終え
今後の北関東庚申塔発見に一層意味が増した気がする
今現在はその民間宗教が消えようとし・・
有る意味民間宗教は民間道徳として生き続けた。と言っても過言ではないだろう