ん・・CBXのエンジンが?
- 2010/02/09(Tue) -
MOTOFILEさんのブログを見て・・・CBXのエンジン2個でV型12気筒2000ccのバイク?
1980年代初頭は二輪排気量販売規制で750ccまで、二輪免許に於いても限定400cc(中型)で大型自動二輪の取得は至難の技だった頃。
CBX1000(直列6気筒1000cc)が輸出用とされた中、国内販売の主力は既に中型(400cc)に移り後にCBX400として国内で販売された記憶がある。

↓それにしても凄いバイクに改造するな〜!!
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30年程の前のバイクエンジンを改造して・・・・動いてますよ



これもCBXとほぼ同時に輸出用とされたカワサキKZ1300(直列6気筒)改造のV12
ベースはKZ1300のエンジンをボアダウン?



もっと昔に遡るカワサキSS750(2サイクル)のエンジン16台分(3×16台)48気筒?



しかし・・・・楽しいですね。
クレイジーか (笑

ついでに親父が30年ほど前CBX1000に乗る姿
(若い!!現在のメタボから想像できない(笑 )
二十歳代の親父CBX1000に乗る箱根にて二十歳代



↓ついでに、もう一丁!楽しい奴ら

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軽CARによる奈良・大阪・京都めぐり
- 2010/02/08(Mon) -
軽CARで3日間(2/5〜2/7)に及ぶ1383km旅は無事に終わった
奈良に有る磨崖仏として彫りつけられている小夫の庚申塔と近畿地方に古くからある有名な大阪四天王寺の庚申堂、小泉庚申堂(大阪と奈良の間)と京都の八坂神社にある「庚申堂」を訪ねる目的

2/5午後7時40分に群馬県太田市の自宅を出発
普通タイヤ夜間の走行なので長野自動車道や中央自動車道を避け関越自動車→圏央自動車あきるのIC→一般国道→東名厚木ICへ東名自動車道→伊勢湾岸自動車道→東名阪自動車道→名阪国道で奈良県桜井市へ
当日気象は荒れて東名阪自動車道→名阪国道は雪模様・・・無事翌日午前4時には桜井市に道の駅にて仮眠を3時間程とり目的地へ向かう

近畿地方へ長距離は意外にも楽しい軽CAR(軽CARの高速走行100km以上は風やトラックの風圧に恐怖を感じる事があるが・・・)目的を探す場合狭い路地や山道はこの上なく楽だ。
先を急がずゆっくり移動すれば軽CARの本領発揮ともなるだろう。驚く事に奈良までの燃費は仮眠時(3時間アイドリング)を含め15.2km/ℓをマークした

奈良の小夫から狭い舗装林道を抜け大和群山へ向かう途中(眼下に見える町は天理市)

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大和群山の小泉庚申堂を訪ね近くに有る法隆寺へ

法隆寺は、30年以上前中学修学旅行で訪ねて以来で息子はまだ記憶に新しいようだ
大宝蔵院は
百済観音堂を中心とする東西の宝蔵には、有名な夢違観音像(白鳳時代)・推古天皇御所持の仏殿
と伝える玉虫厨子(飛鳥時代)・蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)
をはじめ、百万塔や中国から伝えられた白壇造りの九面観音像・天人の描かれた金堂小壁画など、
わが国を代表する宝物類を多数安置してる。
この歳になり改めて拝観し感動を覚える時間だった

法隆寺の五重塔
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法隆寺を後に大阪四天王寺の庚申堂へ
その後、京都の八坂神社・庚申堂の予定だが、息子の提案にて先に「たこ焼 いっちゃん」へ向かう

関西テレビ放送 [ 番組 よ〜いドン! ]で となりの人間国宝さん に認定されたオヤジさんを訪ねる

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この日京都は底冷えのする寒さで時折雪がちらつき
群馬方面では夜から雪の予報で帰りの帰路が心配・・・・前日交換したタイヤはノーマルタイヤで雪道は不安。。

オヤジさんの親友(以蔵ちゅん)からカーショップの場所を聞きスタットレスタイヤを購入しに行く
京都にタイヤを買いに来たのか?・・・・・(笑

ノーマルタイヤは車に積み4時頃タイヤ交換を済ませ「たこ焼 いっちゃん」に戻る
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八坂神社は次の楽しみに・・・・・
宿は近くの馴染みの宿へ
翌日オヤジさんに挨拶し午前10時頃京都を発ち帰路はタイヤも冬用で中央高速経由で地元北関東群馬へ
帰宅は思ったより早く午後6時前に到着1383km旅は無事に終わった。





戦国時代の庚申塔
この時代公家や守護大名・戦国大名たちが「守庚申」として庚申の行事をおこなってたが、庶民の間にも
次第に庚申信仰が浸透してきて、16世紀には各地で庶民による庚申塔の造立が進みだした
ただこの戦国時代の早い時期の庚申塔は、中心に捉える本尊は、阿弥陀如来・地蔵菩薩・大日如来あるいは、
阿弥陀三尊など各種で、それらが彫像や文字、種子で彫られ、猿や鶏、日や月等、主尊として青面金剛・庚申文字はまだ現れない
この古い庚申塔は比較的奈良県内に多く見られ長谷寺への参道として早くから賑わった初瀬(はせ)
街道沿いにある奈良県桜井市小夫(おぶ)には、近年道路改修で道幅の拡張に伴い、かつての崖も開削され
磨崖仏として彫りつけられてた庚申塔も今は道路の中央に大きな岩の塊として遺されてる
二つの塔の前には榊や花が供えられ今も続く土地の人の信仰も偲ばれる

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街道に沿って並ぶ二基の大きな自然石の庚申塔は何れも「南無阿弥陀仏」の名号が中心に彫られ
左右に「庚申供養」「天正十一年九月十五日(?)」と刻まれており、一基には少し離れて地蔵菩薩(?)の
小像が彫られてる

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こうして、江戸時代初期に向けて庚申信仰が、供養塔としての「庚申塔」を造立する風習を生み出す
と共にこの風習が各地にひろまり、今日私たちの身近に有る庚申塔がみられるようになる。


時は江戸時代に向かい講が組織され・・・
庚申堂
中国の神仙思想から道教につながる「三戸(さんし)の虫」の難を避けることから始まった上流社会での「庚申守」は、室町時代頃から庶民の世界に浸透するとともに、守庚申としての集まりが次第に「庚申待」「猿待」と呼ばれるようになった
この庶民の世界に入り込むのは修験道などの行者が各地にもたらしたと言われ、それらと併せて仏教ともつながって行く
室町時代後期から江戸時代になり、各地に庶民の講が組織されその拠点ともなったのが主な地域にできた「庚申堂」とも考えられる。
特に江戸時代に入る頃からはこの「庚申堂」への参詣者が増えたり、仏教とつながる「庚申縁起」なども発行され、流布すると日頃の生活が地縁的な面が強い庶民の間では、農民における「作神」・「田の神」信仰などと結ばれながら次第に地縁的な集まりを中心的にして村の幾つかの「講」が組織され、庚申信仰はこの「講」が主体となり展開するようになる
庚申信仰の仏教的色彩はさらに拍車がかかり、今も賑わう庚申堂の周辺には庚申信仰の一端を垣間見ることができる
古くからの「庚申堂」として有名なのは、大阪大阪四天王寺庚申堂・大和郡山の小泉庚申堂・京都八坂の庚申堂などがある

江戸時代には日本三庚申として大阪四天王寺庚申堂・大和郡山の小泉庚申堂・八坂庚申堂に江戸の
入谷庚申堂(現存しない)を挙げ「江戸名所図絵(文政十二ねん=1829)」に紹介された
「寅さんの男はつらいよ」の映画で有名になった東京葛飾柴又の帝釈天(経栄山題経寺)もその一つ


大阪四天王寺庚申堂
四天王寺南大門から南に下った所にある
付近には「こんにゃく」屋さんが多く「こんにゃく」は腹の中の砂を洗い流す事と重なって
三戸の虫を払うと信じられてたようだ。
この庚申堂は起源は不明だが・・室町末期には既に存在したと言われてる
寺伝では、「本邦最初庚申尊」として全国の庚申堂もここから勧請されて分身されたものが多いと伝えられる
この庚申堂所蔵の「延宝八年1680銘」の庚申起源は書類の中でも権威のあるものとされ、全国に広まったとも言われてる

青面金剛を祀る庚申堂
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境内には付近にあった庚申塔が10数基納められ、特に三猿と二鶏だけの初期の庚申塔が目につく
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小泉庚申堂
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大和郡山市にある天台宗寺院の光輪院には「一国一文字庚申堂」として有名な小泉庚申堂がある
境内の庚申さまに「お百度参り」で願をかけた人が多かったと思われる笠付の「ウーン」の種子と
「庚申百度石」の文字が刻まれてる石柱が建ってる
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ここでも毎年、初庚申から納め庚申まで六度乃至七度の庚申縁日の催しが行われ
本堂には、内陣と外陣を仕切る欄間の下に近郷在住参詣者が奉納する「くくり猿」が有名
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近畿地方に於ける庚申宗教(民間宗教)の旅を終え
今後の北関東庚申塔発見に一層意味が増した気がする

今現在はその民間宗教が消えようとし・・
有る意味民間宗教は民間道徳として生き続けた。と言っても過言ではないだろう


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寒さに負けR1200RT却下・・・
- 2010/02/05(Fri) -
当初バイクで行こうと・・・・
しかし、道中の安全を考えると手軽で早いバイクはこの時期あまりにも危険
普通自動車で行けば良いのだが・・・・あえて軽CARでと考えた変わり者
(今日も寒い朝フロントガラスは真っ白)
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タイヤも交換時期だったので早速替えて準備OK

寝袋でも積んで一人ゆっくり旅をと思ってたら息子も行きたいらしい・・・・
そんな訳で息子が学校から帰ったら出掛けよう。


目的
◎奈良県桜井市小夫の庚申塔
天正11年(1583年)賎ケ岳の戦…秀吉、柴田勝家を破る年
庶民の間に庚申信仰が浸透し始めた時代 この早い時期の庚申塔は、中心に捉える本尊は、阿弥陀如来・地蔵菩薩・大日如来あるいは、阿弥陀三尊など各種で、それらが彫像や文字、種子で彫られてる
小夫の庚申塔は、磨崖仏として彫りつけられていた庚申塔。近年道路改修で道幅の拡張に伴い、かつての崖も開削され道路の中央に大きな岩の塊として遺されてる

後の庚申待や講に由来する庚申堂
◎大阪四天王寺の庚申堂または、小泉庚申堂(大阪と奈良の間)


先人の人達の民間宗教には多様な要素を含み日本古来からの民族的宗教で庚申塔を造立した
○道教でいう「三戸(さんし)の虫」を封ずるため
○仏教思想に基づいて現世・来世の安楽を願うため
○神道思想によって猿田彦神・道の神に対する信仰による
○陰陽道思想に基づいてる
○「作神・田の神」など農民が古来から持つ五穀豊穣を始め諸々の祈願を込めて祀る風習と重なっている
が挙げられる庚申塔

庚申堂
中国の神仙思想から道教につながる「三戸(さんし)の虫」の難を避けることから始まった上流社会での「庚申守」は、室町時代頃から庶民の世界に浸透するとともに、守庚申としての集まりが次第に「庚申待」「猿待」と呼ばれるようになった
この庶民の世界に入り込むのは修験道などの行者が各地にもたらしたと言われ、それらと併せて仏教ともつながって行く
室町時代後期から江戸時代になり、各地に庶民の講が組織されその拠点ともなったのが主な地域にできた「庚申堂」とも考えられる。
特に江戸時代に入る頃からはこの「庚申堂」への参詣者が増えたり、仏教とつながる「庚申縁起」なども発行され、流布すると日頃の生活が地縁的な面が強い庶民の間では、農民における「作神」・「田の神」信仰などと結ばれながら次第に地縁的な集まりを中心的にして村の幾つかの「講」が組織され、庚申信仰はこの「講」が主体となり展開するようになる
庚申信仰の仏教的色彩はさらに拍車がかかり、今も賑わう庚申堂の周辺には庚申信仰の一端を垣間見ることができる
古くからの「庚申堂」として有名なのは、大阪大阪四天王寺庚申堂・大和郡山の小泉庚申堂・京都八坂の庚申堂などがある
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このように中国からの民間道教や仏教の考え方が溶け合って進むうちに、江戸時代中頃から神道の
「道の神」とされる「猿田彦神」の信仰が加わり、庚申信仰がますます複雑な様相をしめしていく





追記

資料豊かな境遇にて

幼少の頃から、日頃目にしてた庚申塔
田舎に生まれ、まだ小学校に上がる前の記憶が微かによみがえり、80歳になるお袋に電話を入れた
俺『俺が小さい頃、村では庚申塔にまつわる何か行事をしたかい?』
答えは昭和30年代までその集まりを隣組で行っていたそうだ・・・・・・
その後40余年以上は何も無く、ただ一回河川工事で庚申塔を移設する際におこなったと聞く

年月が過ぎ・・・人生の半分以上を過ぎた今、道に数多く残る庚申塔を見て興味を持ち調べ始めた
もっと早ければと思いつつ調べると我が郷土で30年間に及ぶ歳月を費やし足利市内に於ける
庚申塔2300基以上の調査を続けられ、これを優しく敬虔な目で学問的に説かれた
(我が母校の田村 允彦先生)著の足利の庚申塔の本があった

今回の近畿地方に行き新たに一つの始まりとしたい
そして先代達の足跡 庚申塔・道祖神(石仏)風と共に探訪の整備を



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今まで巡る庚申塔は数多いが精査が十分に済んでないのが殆ど・・・・
↓次回はこれを精査しよう


主尊には文字と像が刻まれ、像に関しては青面金剛像の他「如来」「観音」「菩薩」等がある

今回の小さな発見とは、推測であるが群馬県太田市近辺しかない庚申塔である。と言っても過言ではないだろう

発見場所は太田市金山近辺で二対。主尊は袈裟を着た僧侶
上側には日と月と雲 中段に鳥 下段には2拝猿 庚申塔特有の彫り物

金山大光院の近くにある庚申塔 金山山麓にある庚申塔

太田市金山の大光院

大光院は、慶長18年(1611)春、徳川家康によって一族の繁栄と始祖新田義重を追善供養するために開かれた浄土宗の寺で、開山には芝増上寺の観智国師の門弟で四哲の一人といわれた呑龍上人が迎えられました。

 上人は、弘治2年(1556)4月、武蔵国埼玉郡一の割村(埼玉県春日部市)に生まれ、元和9年(1623)8月9日、大光院で入寂した名僧です。

 大光院に入山した上人は、看経・講義・説法などに力を尽くしたため、上人の徳を慕う学僧が大光院には多数集まり、周辺農民も上人の教えを受け入れたので、寺運は栄えました。一方、乱世後の人心は乱れ、天災等の影響で生活は困難を極めていたため、捨て子や間引きなどの非道が横行していました。上人は、その非道を憂い、捨て子や貧しい人々の子供を弟子という名目で寺に受け入れ、寺の費用で養育いたしました。このため、「子育て呑龍」と呼ばれ、今に篤い信仰を集めております(太田市HPより)

これは正に民間宗教が融合した結果で主尊は他に類を見ない呑龍上人の像で有るに違いない

大光院
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金山山麓に有る浅間神社
神社に合祀されてる


では行って来ます
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春を待たず奈良へ行こうか・・・R1200RTで?
- 2010/02/03(Wed) -
この時期にバイクで西へと企む親父。
北関東から近畿地方への旅は辛い中央高速は使えず東名高速経由となる
『箱根や関が原は大丈夫だろうか・・・・?』
その気になれば行けるに違いないと。想像しながら色々な事を考える
勿論バイクなら単独予定。
去年11月21日〜22日にかけて息子のVTR250とT氏のFJR1300の3台で京都へ向かい、冷たい雨にも遭遇せず無事終り旅から2ヶ月が過ぎ先日北関東では珍しく雪、バイク通勤は諦め最近お気に入りの軽CAR(スバルサンバー)で帰宅し翌日には雪は止んだが寒い冬に逆戻りだ(通勤途中)
そうだ!進学も決まり学校授業が少なくなった息子とサンバーで行こうか・・・商用車なので任意保険も年齢制限が無い。(運転させられるので親父は楽だ・・・・)

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でも・・・やっぱりコイツと行こうか。。。

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何れにしても1泊2日の工程となる
まず初日京都へ向かい|| KTV || 関西テレビ放送 [ 番組 よ〜いドン! ]となりの人間国宝さんに認定されたオヤジさんを冷やかしに・・・(笑


その足で奈良へ・・・・

奈良行きを志した発端は親父の郷土で30年間に及ぶ歳月を費やし足利市内に於ける庚申塔2300基以上の調査を続けられ、これを優しく敬虔な目で学問的に説かれた(我が母校の田村 允彦先生)著の足利の庚申塔の本からである

序文より
はや、敗戦後五十六年余を数えるが、その間祖国日本は大きく変わった
政治も経済も社会もそして文化も。勤勉な日本国民は虚脱混迷の中によく立ち上がり、見事に経済復興を成した。が、生活環境の激変は古来からのよき歴史的風土を大きく破壊し、かけ替えのない日本民族の歴史遺産や伝統文化を失わせしめた。
その一つに庚申のまつわりがある。
古代からの庚申の行事は中世には庚申信仰が次第に行われ、近世に入っては庶民に及び日本全国に広まり、家内安全・五穀豊穣などあらゆるご利益願うまさに国民的信仰となった。が、この伝統的信仰も漸く衰え、いまやその歴史を示す「庚申塔」は路傍に風化し、その存在さえも危うくなっている


平安貴族の「庚申の御遊」から鎌倉時代もほぼ同じで公家や上級武士の間で行われ、特に武家社会の様子は「吾妻鏡」などに記録されてる。庚申の夜の催しは京都のそれに倣っていたと考えられる
また、「吾妻鏡」巻三十一の嘉禎三年(1238年)3月9日の守庚申には足利義氏も参列してる事が記載され続く室町時代も「庚申会」が催されていたらしく多くの書物に残る、ただいつ頃から判然としないが、庚申の夜の集まりが庚申会や守庚申などの表現に対して「猿待」と言う呼び方も出て来たようでこの頃には、上流階級だけで無く庶民の間にも広がって行った様子が窺われる。
『庚申信仰』(平野実著、角川選書、1969)には東京都練馬区に有る板碑が紹介され
「長享二年(1488)戊申十月廿九日」の紀年銘「奉申待供養結衆」の銘、僧侶1名と造立者13名と併せマンの種子が刻まれ、庚申塔関係で最古の石造物とされてる
この長享二年の頃には各地で土一揆が起こり、とくに加賀の一向一揆が前年から起こり応仁の乱以降戦国の世に移った世情不安な時代で、神仏に救いを求める庶民の動きも察せられる
戦国時代には、次第に庶民の間にも浸透し、16世紀には各地で庶民による(石板を含む)造立が進み出した。ただこの早い時期の庚申塔は、中心に捉える本尊は、阿弥陀如来・地蔵菩薩・大日如来あるいは、阿弥陀三尊など各種で、それらが彫像や文字、種子で彫られてる。この古い庚申塔は、比較的奈良県内に多い。
奈良県桜井市小夫の庚申塔
磨崖仏として彫りつけられていた庚申塔。近年道路改修で道幅の拡張に伴い、かつての崖も開削され道路の中央に大きな岩の塊として遺されてる
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奈良へ行きたいこの目で見たいそんな単純な親父だ・・・・






20分の距離スーパーシェルパで出かけようと思いきや・・・寒さに負け車で移動

行き先は足利市内に有る徳蔵寺
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千庚申塔が奉納されてる御堂

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希有な千庚申塔(栃木県指定民族文化財)造立寛政12年(1800) お寺の境内外にあり近年剥離も見え出した為今は境内の御堂に奉納されてる
コンデジの撮影の為・・・全体が撮影出来ずに外の写真を添える(左)
総高2メートル90センチ 
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(正面)軸部に千庚申の表記と併せて「庚申」232(左側256 後側256 右側256)の文字が千個彫られてる 

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青面金剛彫像が塔身に示され月・日・二童子・夜叉(正面)

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首部に青面金剛真言の内「オン・ディ・バ・ヤ」の種子(正面)

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基壇に三猿・二鶏(正面)

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塔身に夜叉二体(左側)

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首部に正面に続く青面金剛真言の内「キシャ・バン・ダ・バン・ダ」の種子(左側)

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基壇に銘文(左側)(後側)(右側)と続く(漢文の素養が全く有りませんので後に資料からアンチョコしてこのログへUPします・・・涙)
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塔身中央に「ウン」の種子 右に「寛政十二年庚申年」左に「十二月庚申日建之」(後側)

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首部に左面に続く青面金剛真言の内「カ・カ・カ」の種子(後側)

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塔身に夜叉二体(右側)

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首部に後面に続く青面金剛真言の内「ソワ・カー」の種子(右側)

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春を待たずして奈良へ・・・・?
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昔の道徳教育・・その足跡を辿り
- 2010/02/02(Tue) -
↓過去のブログ忘れ去られつつ http://kasehikaru.blog121.fc2.com/blog-category-10.htmlより


繰り返す歴史の中で人間同士の繋がりはグローバルになり地球規模となった

基本的に人は一人では生きられず繋がりの中で生きて行かなければならない
その過程に於いて様々な競争や争いも生じる場合も・・・・・
しかし、人間で有る以上人種を問わず必ずその境遇に有った道徳が有る。
万人が子々孫々の幸福を願うから当然の事だろう
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日本人は明治維新以前、多種多様な道徳教育環境を持ってた(現代でも神社やお寺に向かう初詣はその名残とも言える)教育勅語以前日本の神道と仏教(陰陽道・道教を含む)は融合しあう時代が続き民間宗教が盛んに行われてた

例えば庚申塔に見る民間宗教これは
旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡って、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三し(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われてた。寿命が縮まっては大変!この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごす。日本では既に10世紀ごろには盛んだったようで、『枕草子』、『大鏡』などに記述があり、この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで大流行した。

 身を慎むことから始まり、徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていき。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもあった。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔で、長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻だ。


庚申待と称される江戸時代の民間宗教から民間道徳教育が自分たちによって互いに道徳を育んだとも言える
その庚申待により3年18回の行事を経て庚申塔が建立され
碑面にはさまざまな主尊が登場し多くの主尊が塔面に刻まれている。例えば青面金剛など代表格から
如来であるが、釈迦・薬師・阿弥陀・大日。菩薩では聖観音・馬頭観音・如意輪観音などの観音をはじめ、勢至や地蔵・六地蔵などである。明王では不動や倶利迦羅があり、天部では帝釈天は無論のこと、弁才天や仁王、その他に閻魔・聖徳太子・双体道祖神があると言われる。(北関東は自然石の文字碑面が多い)
形状に関しても様々な姿で現れて(狛犬や鳥居、など等)

↓先日ツーリング中に目を引いた庚申塔は千葉県野田市に多い猿田彦太神と判明
DSC02786_R.jpg 庚申塔は多種多様な姿で現れ、その地方により個性がある

庚申塔の彫り文字に(講中)の文字が彫られてる場合が多く
起源は、文明年間(15世紀)に浄土真宗 本願寺派が布教の手段としてつくった末寺を中心 とした寄り合いの講(講は、本来は仏典を講説す る僧衆の集会を意昧する。転じて信仰行事とそれ を担う集団をさし、さらに転じて共通の利益のた めの世俗的な行事とその集団をさすようになっ た)
江戸時代には民間信仰を白分らの共同生活の基盤の中に入れ、 相互扶助の美風を育てた言っても過言ではないだろう?
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爆盛り やよい食堂&朝霞駐屯地見学ツー 
- 2010/01/31(Sun) -
今年最初のマスツーリング ツーリングクラブECHOのSAWAさん企画する爆盛り やよい食堂&朝霞駐屯地見学ツーに(BMW R1200RT&ホンダVTR250)で親子参加させていただきました。

やよい食堂

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我々親子は、やよい食堂 で合流する事に朝7時45分自宅を出発する まだ朝は寒かったが、日中は暖かな日和。

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東北自動車道佐野藤岡ICへ向かい蓮田SAで休憩。

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流山ICを降り やよい食堂へ

食堂の手前まで来たところ・・・・・

庚申塔群発見(中に珍しい庚申塔が有りバイクを降り写真を撮り始めてしまう脳天気親父)

ちょっと寄り道・・・・


庚申塔は、石仏の中でも魅力的な石造物です。全国各地に分布していますから、旅先や出張中に出会えます。もちろん身近にも存在します。ここでは庚申塔についてお話しましょう。

南関東の庚申塔の特徴は、主尊が変化に富んでいる点である。それは造塔年代とも関係があって塔の変遷があり、つまり主尊混乱時代の造塔が多い。庚申信仰の本尊として広く青面金剛が普及して定着するまでは、庚申塔にさまざまな主尊が登場する。実に変化があって、通常、見られる石仏の多くの主尊が塔面に刻まれている。
まず如来であるが、釈迦・薬師・阿弥陀・大日。菩薩では聖観音・馬頭観音・如意輪観音などの観音をはじめ、勢至や地蔵・六地蔵などである。明王では不動や倶利迦羅があり、天部では帝釈天は無論のこと、弁才天や仁王、その他に閻魔・聖徳太子・双体道祖神がある。青面金剛や猿田彦はいわずもがなで、猿を主尊の座に据えた塔も造られている。珍しい例としては、冨士御師発行の庚申掛軸を模した塔もある

目を引いた庚申塔はこれ↓

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まだまだ未熟な親父は塔面に刻まれている主尊が解らない・・・・・猿田彦太神と判明
明らかに庚申塔と確信出来たのは台座に刻まれた三猿から。

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文久三年と刻まれてる1863年 今から147年前。新しい類に属するが珍しい・・・・

そしてこの庚申塔群。。

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明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を勧めた
さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事等によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。
そして近年ではこうして街道筋に散らばってた庚申塔や道祖神が今尚群として残る

親父にとって魅力的・・・・時間をかけて精査したいが・・・ツーリングの為合流しなければ・・・・・・・
また時間を見つけて訪れます!


先に行った息子が戻って来て
息子『親父〜もう皆集まってるぞ!!』
そんな言葉に急かされ
寄り道をしてたどり着いた合流先 やよい食道

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終盤組の親父と息子

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もう皆さん注文が終わってます

早速出てきたオムライス
特大オムライスの上に乗ってるスパゲッティ

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親父はカレーライス。
カレーライスとカツカレー・・・お盆に載って出てきます

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息子は焼きそば・・・少食だな。
親父が息子の頃にはもっと食ったが

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どうにか我々のテーブルは皆完食出来ました

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食事が終わり駐車場で一休み今回も台数が多い

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次は外環道に乗り自衛隊朝霞駐屯地へ

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自衛隊朝霞駐屯地へ到着すると・・・
怪我が治ったねぎちゃんが合流しました!同県人のご近所さんです
今度一緒に群馬の山々を走りましょう林道良いな〜

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見学する息子
なにやら着てますね

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バイクも展示されてます

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今日は此処で解散。
息子とねぎちゃんと3台関越自動車道を走り群馬まで

走行距離250km


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ECHOの皆様お世話になりました。今年も宜しくお願いします

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からかぜ街道 珍道中
- 2010/01/30(Sat) -
小春日和感覚な土曜日
実弟と甥そして息子の4人(4台)でショートツーリングへ
(R1200RT VTR250 RGVΓ250 250TR)

昼食を済ませ実弟宅へ向かう R1200RTと息子のVTR250

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20分程走り実弟宅へ
子犬だったシェパード(クロ)がお出迎え すっかり大きくなった

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去年、年末に中型自動二輪を取得した甥(高専1年)従兄弟同士の会話が弾む
甥の愛車カワサキ250TR

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レストアされたスズキRGVΓ250が2台

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このガンマCDIユニット(モジュール)をヨーロッパ仕様に
キャブは30パイから34パイに変更しセティングした
シャーシダイナモで測定し後軸出力55PS に達したエンジン単体なら60PSを超えてるだろう(後のブログにて詳細を)
250ccのバイクにしては驚異。

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赤城山の麓を4台で走り

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例年は日陰に雪が残り走れない(からっかぜ街道)だが全面爽快に走れた
折り返し地点 関越自動車道赤城IC付近のコンビニにて

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帰宅は午後4時前100km程度のショートツーリング

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明日は久々のマスツー爆盛り やよい食堂&朝霞駐屯地見学ツー



 
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